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2004/12月号「月刊浪曲」より、浪曲ののすすめ文章を転載
浪曲リレー放談(9)「わたしの木馬亭」
小池あい子 (「浪曲のすすめ」作者・24歳)
はじめまして。
私は木馬亭に半額料金で入れてもらえる程度のやや若者です。
浪曲に興味を持って、浪曲と自分をテーマに「浪曲のすすめ」というミニ本を6月に20部ほどひっそりと作りました。
それがどんなわけかこの「月刊浪曲」という、月刊で浪曲に関するあれこれをナニするというマニアックそうなどえらいとこに流れ着いたようで、この度こうして私のようなモンがペンを握らせてもらう事態となりました。
えっと。そもそも浪曲とは一切の関わりもなく育った私は、ただイエス玉川さんのおかしな漫談と「天保水滸伝」の言葉配列の美しさに惹かれて進んでみたらばそれが浪曲だったよというのが入口です。
「浪曲が面白くて」と言うと、老人臭いとか、今の浪曲なんかダメだよと言われたり、「変わり者だ」とカテゴライズされてしまうので、どうも現在の世間において浪曲の地位は「過去のもの」で、思想もスタイルも古臭くて、ダサくて、あまりいいものじゃない印象のようです。
でも私にとっては、一人オペラ的なスタイルも面白いし、節の七五調なところも気持ちがいいし、描かれている世界観も時代がついてて新鮮、斬新でした。
そんなこんなで、浅草が好きだし、毎月木馬亭に通う習慣ができて2年半となります。
ただ私には情報を収集して記憶したり、勉強するといったオタク的気質が乏しいので、ぼんやり通い、何も思わず、大半を忘れ、それが自分でも困ります。
浪曲を通して人と交流することも少なく、テーブル掛けの絵柄や、耳に残るセリフや、浪曲師の肌ツヤなど、自分の目に耳に留まることばかりに気がいくので、肝心な内容や節の具合の記憶はモヤがかったまま。
こんな無為にも見える木馬通いですが、ぼやけた私の中にもくっきりと残る浪曲師は何人かいます。
雰囲気がいいとか、この人のやる話は特別悲惨でおかしいとか、間違えたり詰まったりするときのぽかんとした表情がたまらないとか、耳当たりが気持ちいいとか、ロマンチックそうだとか、それぞれ私の勝手な主観と憶測で好きを決めています。たぶんナマの舞台だからそれがわかるのだと思う。それらを楽しみに足を運んでもいるので、私のスターが舞台に上がらないのは問題です。
そうです、イエス玉川さんのこと。今後木馬亭に上がらないと聞きました。
詳しくは知りませんが、イエスさんの木馬亭の高座がいけないと言う人がいるのだそうな。
なんで? 残念過ぎです。甚平姿で高座に上がったり、木馬亭は以前ストリップ劇場だったと発言したりしたことがいけないとか。
そのとき多くの客はそれをイエス玉川の個性と認めて楽しんでいたじゃないか。
少ない木馬のお客さんの前でも毎度大切に演ってくれる姿への評価はどうなってるのだろうか。
入りにくい浪曲の門とは別個にイエスさんは漫談という楽しい窓があり、そこからうわーっと人をひきつけて笑わせて、いつのまにか浪曲を使って泣かせている。
その舞台によってイエス玉川の客ができるのはもちろんだけど、さらにすごいのは浪曲のファンを作っていることなのだ。
何か自分の信念があるのなら、たとえ苦しくなろうと大事にしたいじゃないか。
だってそうするしかないから。皆からはぐれないように周りを気にして、力のある人のご機嫌取りしてたら格好良くないじゃん。
そういう意識を持って毎日いたいなと思わせたり、人々の刺激になってる人が、客の心に触れることができる人が、木馬亭に上がらないなんてつまらない。
木馬亭の魅力も、浪曲の魅力も減ってしまう。
私はノスタルジックなレトロ趣味者ではなく、ドキドキを求めてナマの闘いを観に浪曲木馬亭に通っている。
嗚呼。
つまらないモラルだかなんだかで、貴重な才能を縛ることなかれ。
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