1/10 練馬文化センター「「新春スペシャル 立川談志一門会」
隅丸(月刊「隅の演芸」2月号より)
正月の10日に、談志を見に行った。
練馬文化センターという区民施設で、大きい箱だから、こういったところでは談志は、気がのっていないことが多い。
そもそも談志という人は、非常にムラが多い人である。
ムラというのは、いいときと悪いときの差が激しいということである。
それでもなお、談志を見たい必ず見る、と言う人が多いのが不思議でならなかった。
個人的なことを言えば、いいときにあたったことがほとんどない。
わかりやすすぎるクスグリしか笑わない客へのイラダチ、自分の理想に体力がついていないときの自分へのイラダチを、そのままぶつけている姿が最近つとに目立つ。
ひどいときは、落語の解釈や、ジョーク紹介などに終始してしまうこともある。
それでも談志を見に行こうと思ったのは、いまだに今日の談志はあたりだった、凄かった、という感想を聞いたり、舞台から漂う、あるレベルまで到達したものにしかわからないある種異様な雰囲気というか佇まいを、この目に留めておきたい、と思うからである。
そして。
この日の談志は「あたり」だったのである。
演目は「羽団扇」。
おめでたい初夢の話。
この話、フワフワして、てんでつかみ所がない。
しかし、そのフワフワぶりが、いまの談志の「イリュージョン」、次から次へと連なっていく想像力だけが頼りの手法に、バッチリと噛み合っていた。
まだカッチリと古典を演じきっていた若き日の談志を彷彿とさせるメリハリと、落語をもてあそぶことを覚えた現在の談志の、双方のいいところがうまい具合に融合した感じ。
聴いてるこちらまでも、なんだかフワフワとして、あたかも夢の中にいるような気分で、いい気持ちになる。
目の前には、天狗の羽団扇を盗んで空を飛ぶ喜びを、あどけない笑顔で生き生きと演じる談志がおり、宝船に乗って七福神をからかうお茶目な談志がいる。
体がとろけていくような感じがした。
驚くことに、談志は「かわい」かった。
一席を終えて、演者として落語に溶け込んだ満足感からか、最後に見せた笑顔は、最高にかわいかった。
こりゃ、演者としてずっと本気で落語とぶつかりあっていた若き日の談志を見た人が「談志だったらなんでもいい」という気持ちもわかるな。
迂闊にもその日、私もこの人が目の前でしゃべってくれたら、なんでもいい、と思ってしまった。
うう、だまされないぞ。
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