しもきた空間リバティ「絹13」
紀伊國屋ホール「笑いの人間交差点」
三鷹文鳥舎「みたかdeきいたか」vol.12
紀伊國屋ホール
「笑いの人間交差点 BY 木村万里シャッフル」
紀伊國屋ホール「笑いの人間交差点」
紀伊國屋ホール グリング「虹」
札幌 談春「芝浜」
横浜にぎわい座 のげシャーレ(地下ホール)
「笑志・ダメじゃん トーチカの不発弾 
イエス様にNo! No! No!」
上野鈴本演芸場下席
しもきた空間リバティ「絹13」最終日
鴻巣市・西洋料理「メイキッス」二階
「鴻巣寄席」
「立川流日暮里寄席」
日暮里サニーホール・コンサートサロン
しもきた空間リバティ「ヨージ単独ライブ」
「寒空はだか カラフルロスタイムショーVOL.2 With 三宅伸治&清水宏」
木馬亭11月浪曲定席 
江古田〜浅草〜中野
「日芸芸能塾vol.2」いろもの編:江古田・日大芸術学部中講堂
「浅草演芸ホール・11月中席夜の部」
「落語教育委員会」:中野・なかのZEROホール
駆け抜け記
下北沢ザ・スズナリ「チェックポイント黒点島」
大阪: 千日前 TORII HALL 
「第2回 艶芸サロン〜東西粋競演
(とうざいいきくらべ)〜」
三越劇場 劇団若獅子
「忠臣蔵外伝 その前夜 二幕」
帝国劇場「夢芝居一座」昼の部
名古屋大須演芸場
ダメじゃん小出ソロライブ「大須ナイト」
Star Pine’s Cafe 寒空はだかソロライブ
「Tower of吉祥Terror…冥王井の頭星…」
林家たい平独演会 たい平発見伝 其の一
浅草東洋館 「8☆王子芸能社 秋の余興」
池袋東京芸術劇場小ホール 「談春七夜」
 

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06/11/29、06/12/14 しもきた空間リバティ「絹13」
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前半と後半、各一日拝見しました。
以下、プログラム順の感想です。

■ サンプリアン
会社の大事なプレゼン当日、会場に集合した三人の担当者。
必要な資料を持った、上司である課長だけが到着せず、ひたすらケイタイに連絡が来るのを待ち続ける。
だが、電波の具合が悪いのか、なかなか繋がらない。
繋がってもすぐ切れる。
取引先の担当者一人も巻き込んで、なんとか連絡を取り合おうと四苦八苦する三人の担当者たち。
という非常にシンプルなストーリー。
だから、脚本、台詞、の面白さにおんぶにだっことはいかない。
やはり演者にもリアリティのある表現が求められるわけです。
そこがまだ、十分とは言えないような気がしないでもない。
(我ながら、歯切れが悪い。)
でも、それは寄席で言えば見習いのみなさんでしょうから、これから成長していただければよいのです。
(THE GEESEだって、初めて拝見したときはどうなることかと思いましたもの。)
ただ、ふと思ったのは、笑いを表現したい人であるならば、自身が舞台に立つ以前に、たくさん面白いものを見ておいてほしい、読んでおいてほしい、笑いの現場に居合わせておいてほしい、ということです。
演技力や舞台度胸は場数を踏めばついてくるものでしょうが、笑いって学校でまじめに勉強したから身につく、というようなものではないと思うのですよ。
子供の頃からいろんなものに興味を持って、無意識のうちに身体の隅々にまで面白さを吸収していた人でないと、舞台の上で笑いを表現することは難しいのではないでしょうか。
笑いの経験地が高くないと、その表現力も高まらないってことですね。
サンプリアンのみなさんには、人に見せたいと思う前に、見たい人になってくださいと、生意気ながら申し上げたいです。

■ THE GEESE
ネタは二つ。
どちらも面白かったので両方感想を書きたいのですが、二つ目のネタはどうもネタバレしそうな恐れがあるので、(不謹慎で、危なくて、でもTHE GEESEらしい品は失われていなくて大好きなのですが)あきらめて一つ目についてだけ書かせていただきます。

ワンセグケイタイで野球中継を楽しみつつ、仲間との待ち合わせ時刻までコーヒー一杯で長時間粘り続けた喫茶店のお客。
ようやく腰を上げ、レジに向かい支払いを済まそうとしたら、店側から思わぬサービスがあり…
うまいなあ、話の作り方が。
とても緻密に組み立てられている。
ケイタイという小道具のあしらい方もスマートですよね。
偶然の一致か、サンプリアンのコントでもケイタイが使われていましたが、あちらは主役級の扱い。
一方THE GEESEの方は重要な役割を担った脇役。
そのあたりのほどがいい。
それもワンセグのケイタイというのがポイントだと思います。
お客がお店に置かれたテレビで野球中継を見ていたという話にしたら、きっとあの面白さは出てこない。
あの軽さ、洗練した味わいは消えてしまう。
こういう作品は、たぶん年配の台本作家がどうがんばっても無理、(と言うより、がんばる、という時点で、もう不可能なのだと思いますが)創りえないものだと思います。
たとえ、その台本作家が普段からケイタイを使うタイプの人であったとしてもです。
と、未だにケイタイを持たない前世紀の遺物の私は深く思いました。

■ ヨージ
テストの点が悪かったのか、居残りで補修を命じられた女子高生。
先生が来るまで友人とおしゃべり。
話題は主に、ディズニーランド、ディズニーシーのこと。
ただし、ヨージさんワールドは、現実の忠実な模倣ではない 。
女子高生の会話というありふれた日常的風景の中に、ところどころ、それも唐突に非現実が現れたりする。
リアルでもなく、シュールでもない世界。
私にとっては、現実にあるディズニーランド、ディズニーシーよりよほど魅力的なワンダーランドです。
しかし、明快な設定、笑いを求めている人にはおそらく受け入れ辛い世界でもありましょう。
(毎回そんなことを思いながら、絹の舞台を拝見している私です。)
ですから、やはりと言うべきか、部分的に受けている箇所もありましたが、トータルで見ると客席は比較的静かでした。
ヨージさんワールドでは、あらゆる物事にディズニーが浸透しているようです。
イノッキーマウス(顎が長くしゃくれているらしい)のケイタイストラップ、
♪ディズモトキヨシ、
♪ディズニーの塩(ディズニーシーのしゃれにもなっている?)、
ディズニースエット
(「粉を溶かすタイプなので、飲む前にはよく振らないとダメ。底にチップとデイルが沈殿するから」←これも頭韻法みたいなしゃれ)、
へんなおじさんのウォルト・ディズニー、
ディズニーボール(ドラゴンボールのようにシェンロンが登場し、「東京ディズニーランドと言っているけれど、本当は浦安にあるんですよ」と親切に教えてくれる)、
・・・なんて言葉が女子高生の口から次から次へと出てきます。
実際には実在しないものばかりだけれど、実在の人物、店、商品、キャラクター、作品などをもとにしているので、なんとなく親しみは感じられて妙におかしい。
ただし、そう感じない人も結構いらして「なんだかわけがわからない」という空気も確かにありました。
(だから客席は比較的静かになってしまう。)

私が特に好きなのは、友人の言葉について主役の女子がコメントするシーンです。
(一人芝居形式のコントだったので、友人が具体的にどんな台詞を話したかはわかりません。)
主役の女子曰く。
「なに、時事ネタ? また年上受けねらって」(台詞再現率は5割前後)
私はこの台詞に大受けで、大爆笑したのですが、ほかにどなたも笑っていなくてひどく孤独でした。
でもね、年代が上がるにつれて、時事ネタを歓迎する傾向も高まるというのは確かだと思いますよ。
時事ネタの方が高級、質が高い、大人の笑いだと思っているお客さん、比較的年配の方に多い気がします。
そういう方々は、自分は問題意識の高い人間だという自負もお持ちなのでしょうね。
それ自体は悪いことではないけれど、時事ネタ以外は笑いのスイッチをオフにしてしまう鑑賞態度はつまらないですよね。
こういう台詞を聞く度に、私は大笑いしながらも「ヨージさんの視点、観察眼は鋭いなあ」と感心してしまうのです。
でも、多くのお客さんは、なんだかわけのわからない架空のディズニーランド、ディズニーシーの話の中に、いきなり「年上のお客は時事ネタがお好き」と言うような、極めて現実的で身近な台詞を(しかも女子高生から)聞かされて、さらに頭が混乱するばかりだったのかもしれません。

もう一つ、お母さんとケイタイで話すシーンも好きです。
「お母さん、この間も同じこと言ったじゃん。
言ったよ。言ったよ。言ったよ。言ったってば。言った」
と女子高生当人も「言ったよ」と、同じことを何度も延々と繰り返すのです。
それが無性におかしくて、私は声をたてて笑いました。
(この時も、ほかにどなたも笑っていなかったなあ。)
でも、この女子高生が抱いている、母親に自分の気持ちがわかってもらえない、もどかしさ、悔しさ、悲しさ、も伝わってきて、胸がしめつけられるようなせつなさも同時に感じていました。
で、この母親の言った「同じこと」とは「行けるもんなら行ってみな」という台詞だということが、後からわかるのです。
その言葉が発せられたのは、最初は娘(=女子高生)が「マツケンのコンサートに行きたい」と言った時。
そして二度目は、娘が「大学に行く」と意思表示した時。
「どうしてマツケンのコンサートと大学が一緒なの?」
という女子高生の台詞にも大笑い(←私は)なんですが、このおかしさは
「説明しなければならないのなら、一生この気持ちはわかるまい」(チャーリー・ブラウンの言葉)なんですよね。

■ ダメじゃん小出
NHK7時のニュース、天気予報のネタと、キム・パク先生の授業のネタ。
どちらもソロライブで拝見したことのあるネタなので、比較的リラックスしながら楽しませていただきました。
(初めての時は、やはりどうしても面白いところを聞き逃すまいと、無意識のうちに耳をそばだててしまうのです。)
主に時事ネタですからね。
ヨージさんコントの登場人物に言わせれば、「年上受け」する作品です。
でも、11/29のお客さんは比較的おとなしめでしたね。
自分が贔屓にしている特定の演者、特定の傾向のネタだけに注目するのではなく、どの作品もしっかり観察しよう、きちんと見極めて咀嚼しようという意思を持ったお客さんたちだったのだろうと思います。
冷たいのでもなく、重たいのでもなく、冷静で、落ち着いた空気が、開演前から会場に満ちていました。
ダメじゃんさんファンの私としては、もっと笑い声がおこってもおかしくないのにと思ったのですが。
巧みな表現に感心しているうちに、次のネタに移ってしまい、笑うタイミングを失った、という人もいたのかもしれません。
私はキム・パク先生がかなり好きなんですよ。
中学時代の英語の先生の思い出が、キャラクター作りに役立ったというような話をソロライブで伺いました。
そのせいか、表現にリアリティがあっていいです。
それから、NHKの天気予報の人。(正確には気象予報士と呼ぶべきなんでしょうが。)
まず、予報を始める前に、「こんばんは」と小さな声で挨拶し、軽くお辞儀する様子がいかにもNHKの天気予報の人なんですよね。
そして終始、微笑を浮かべながら「グレーな笑い」の時事ネタを天気予報に織り交ぜていく。
地味な部分にも手を抜かないダメじゃんさん、サスガです。
こういう細やかな描写力があればこそ、ネタの面白さも生きるのでしょうね。

■ 春風亭栄助
不思議な存在感のある噺家さんです。
自信なげな、おどおどとした話し方。
さほど笑いどころのないマクラ。
(「面白い体験談がないから」と、作り話を実話風に話しているにもかかわらず。)
これは狙いなのか?
手品師が一回目はわざと失敗して見せて、その後成功してお客を喜ばせるように。
柳之宮喜多八殿下が、「虚弱体質」と言いながら、実は誰よりも健康体の噺家さんで、力の抜けた(ように見える)マクラとはうって変わって、本編の落語ではお客をぐいぐいひきつけるように。
最初は未熟者と油断させて、徐々に練り上げたネタを聞かせていき、意外に達者な若手なんだと認識を覆させる作戦か?
なかなかしたたかな、侮れない業師なのかも。
と思ったのも、マクラではさほど笑い声がおきていなかったのに、いわゆるノリツッコミを入れた栄助さん流古典落語がかなり受けていたからです。
私が栄助さんを初めて拝見したのは、新作落語を手がける若手噺家さんと、自作コントを演じる芸人さんの他流試合のような会でした。
栄助さんは噺家さんでありながら、まるっきりコント寄りのネタ(というより、コントそのもの?)を披露され、終始立ったまま、日本に出稼ぎに来た東南アジア出身の若者を、やはりおどおどと演じていらっしゃいました。
最初は「???」という顔をしていたお客さんを、徐々にひきつけていく手口、もとい、手法は、今回同様。
でも、個人的な好みから言えば、落語という縛りがない分だけ、あのコントのほうが面白かった気がします。
ノリツッコミの古典落語は、話の持っていき方や、落ちが、私にはなんとなく予想がつくものだったので、片頬が緩むか緩まないかぐらいで終わってしまいました。
栄助さんは既存のものにアレンジを加えるより、ご自身で一から創作するほうが得意な人なのかもしれないなと思いました。
(でも、他のお客さんにはアレンジ古典落語も受けていたのだから、私の意見には信憑性ないですね。)

■ バカリズム
ネタはソロライブでも拝見したことのある「泣き男泣く」でした。
http://marishiro.cool.ne.jp/kaguyahime/ground/526-550/ground-533.html
世に感激屋、涙もろい人はいるけれど、この「泣き男」の場合は日常生活に支障をきたすほどだから尋常ではない。
一つ一つ具体例をあげ、その度にしだいに感情を高ぶらせ、嗚咽をもらし、涙声で語る。
そして、その様も例をあげるごとにエスカレートしていく。
音楽で言えばクレッシェンドのように。
うまいなあ。
繰り返しが効果的。
お客さんをあきさせない。
むしろ、繰り返すことで、お客さんをどんどんひきつけていく、虜にしてしまう。
笑いが増幅していく。
升野さんの構成が巧みで、また、ご当人にそれを表現するだけの力があるからでしょうね。
「泣き男」は誇張された人物像です。
へたに演じられたら、「そんな奴いねーよ!」と突っ込みたくなるはずです。
でも、升野さんの「泣き男」にはリアリティがある。
現実にありそうな出来事を写していたサンプリアンの舞台にリアリティが感じられなかったのとは対照的。(ゴメン!)
升野さんは自作一人コントの人です。(かつては、二人組だったけれど。)
自作一人コントをするということは、台本作家、監督、演出家、演者、と一人で何役もこなすということですね。
だから舞台に立たれていても、作家、監督、演出家などの目で、演じているご自身を俯瞰して眺めておられるのでしょう。
そして、舞台の上での、主観(登場人物の視点)と、客観(作家、監督、演出家はもとより、お客、升野さん自身の視点)のバランスがよいのでしょう。
表現にリアリティはあるけれど、どこかクールな印象があるのはそのせいか。
普通のお芝居とコントの厳密な違いはどこにあるのか?
実のところ私にはよくわかりません。
ただ、普通のお芝居であれば、登場人物の主観だけで演じられても問題はない、というより、そのほうが迫真の演技として歓迎されるような気がします。
でも、コントでは、表現者に客観的な視点がないと、きっと面白い作品にはなりえないのだろうと思います。
その主観、客観の割合、表現法は各々違うのでしょうが。
「泣き男泣く」は言動がエスカレートしていく男の話です。
こういう話は何度か舞台にかけるうちに、演技が過剰になり、作品が作られた当初とは、ずれたものになる危うさも孕んでいると思います。
しかし、私が見る限り、今回も8月ソロライブで拝見した舞台と同じ印象、ずれた様子はまったくありませんでした。
(作品によっては、回を重ねるうちに、進化、成長していくことが、プラスに作用する場合もあるでしょう。しかし、「泣き男泣く」は、話の筋自体が、男の言動が徐々に変化していくというものなので、これ以上の変化はないほうが望ましいと思うのです。)
表現者の客観的視点あればこそ。
「泣き男」というエキセントリックな人物でありながら、毎回、ポイントは外すことなく、ピタリと着地をきめる。
天晴れな升野さんでした。
これだけ書いておいてなんですが、実は私は、イニシャルトークの歴史の授業(正式名称知らず)か、「銀行弱盗」が見たかったんですよねー。

■ ナオユキ
漫談ではなく、スタンダップコメディ。
場所で言うなら、ニューヨークのダウンタウンがふさわしい。
ナイトクラブのお客が、お酒片手にリラックスしながら楽しむような。
シックで、クールで、ドライで、シャープで、エッジのきいた笑い。(ああ、ほぼ意味不明。)
ま、そんなイメージですよ。
実際はどうか知りませんけどね。
ともかく、ナオユキさんは、従来の日本の漫談とは一線を画したフィールドで勝負したい芸人さんなのだろうと思いました。
アメリカンスタイルを踏襲した(アメリカ限定ではないのかもしれないけれど、なんとなく英語圏のイメージです。)スタンダップコメディを目指しておられるのだろうと。
日本の漫談では、演者がお客に呼びかける形で進むことが多いような気がします。
実際にお客と会話をするわけではありませんが、話し方は目の前にいるお客を意識した形になっています。
「先日、こんな経験をしました」
「最近の日本は○○ですよね」
「○○で、こんなことがあったそうですよ」
例を挙げればこんな感じ。
一方、ナオユキさんは、お客にはまったく呼びかけないスタイル。
(だったと記憶しています。)
「道を歩いていたら、向こうから来た人が、『この道はどこに行くんですか?』
と訊く。道はどこにも行かん。どこかに行くのは、あんたや」
なんて具合。
日記風というのか、独白調というのか。
一人だけで完結している、完全な一人語り。
客に媚びない語りがクールでカッコイイ、と感じる人もいれば、発せられた言葉が宙に浮いているような不自然さが残る、と感じる人もいそう。
私自身は、ナオユキさんの意図するところはわかるけれど、印象としては後者。
ネタも、栄助さんの時と同じで、話の持って行き方、落としどころが予想がつくものだったので、思いきり笑えなくて残念でした。
面白い噺家さんのマクラや、チャールズ・M・シュルツ氏の作品にもっと面白いものがあるよねえ、と思ってしまったんですよ。
短いネタを次々と、しかも、前後になんのつながりもない全て独立した話を、同じトーンで聞くのも飽きちゃうなあ。
ただし、他のお客さんは大いに笑っていらしたので、私はまったく少数派だと思います。
私の意見なんぞ、きっと誤差の範囲内ですよ。
世の中には変わり者もいるんだってことで、見逃してくださいね。

■ 山本光洋
ネタは二つ。
浮遊するキューピー(正式名称知らず)は完全なパントマイム。
バックに流れるのはジプシー・キングスの「ボラーレ」。
ネタと音楽の相乗効果で、高揚感がさらに増します。
キューピーが空を飛ぶ。ただそれだけのことなのに、なぜこんなに楽しいのでしょうね。
宙を舞うのが凧だったら、きっとたいして面白くないのだろうなあ。
得意げに空を飛ぶキューピー、そのキューピーに翻弄される光洋さんを見ているだけで、自然に顔がほころんできてしまいます。
実際には、キューピーの表情が変わるはずはありませんし、光洋さんのほうがキューピーを操っていらっしゃるのですけどね。
そして、翻弄されるどころか、操られる立場になるのが、チャーリー山本のネタ。
なにしろ操り人形なんですから。
それも、ただの操り人形ではない。おしゃべりもできるから、お客さんとの絡みもOK。
光洋さんの声がまたいいのですよ。
(噺家さんになりたいと思ったこともあるという光洋さんなので、おしゃべりをするネタもお好きなのでしょうね。)
チャーリー山本は、主に、寄席、演芸場に出演している芸人さん?らしい。
だから、登場時には確か出囃子が流れました。
6月に行われたダメじゃん小出さんのソロライブにも、チャーリー山本はゲスト出演したのですが(売れっ子ですねえ)、会場が浅草木馬亭でしたから雰囲気ぴったりでした。

浮遊するキューピーはどちらかと言うと、洋風の匂いのするネタ。
ヨーロッパの小さな町の広場でなさってもきっと受けると思います。
(光洋さんは大道芸もなさる方ですからね。)
一方、チャーリー山本は、和の匂いのするネタ。
いかにも、ベタな演芸場モードです。
和と洋の対照の妙。
また、浮遊するキューピーは、人形に翻弄される人間のネタ。
それに反して、チャーリー山本は、人間に操られる人形のネタ。
人間と人形という対照の妙。
さらに最も基本的なこと、浮遊するキューピーは完全なパントマイム。
しかし、チャーリー山本は、パントマイムの要素はあるけれど、台詞のあるお芝居。
台詞のあるなしという対照の妙。
どちらも独立して楽しめる十分に面白いネタですが、短い時間に対称的な二つのネタをなさったのは、お客さんの満足度がさらに高まるように、という光洋さんのサービス精神なのだろうと思いました。
今まで、一つ一つのネタを拝見して、その度に、「光洋さんすごい!」と感動していたのですが、今回、ネタの組み合わせにも心を砕いていらっしゃることがわかって(もっと早く気づけよ!>自分)、さらに「光洋さんすごい!」の気持ちが増しております。

■ オオタスセリ
夫に先立たれ、喪主となった女性。弔問客を前に、挨拶をするという場面。
本間しげるさんの「劇的オバさん」
http://marishiro.cool.ne.jp/kaguyahime/ground/150-200/ground-176.html
は、結婚式でスピーチをするというお話ですが、ペコちゃんのこのネタはそのお葬式版みたいな話ですね。
(因みに本間さんのネタの中にも、劇的オバさんが喪主になる話があります。)
最初は自信なげに、遠慮がちに話していたこの女性、夫の生前の言動について話しているうちに、次第に気持ちが激してきて…
という展開は「応援演説」のネタに似ているのですが、こちらのほうがブラックですね。
女性の話から、この夫婦のそれぞれの性格、暮らしぶり、が徐々にわかってくるのですが、一つ一つのエピソードがクスクスと笑えるような話で、じわじわと笑いがひろがっていきます。
そして、聞いているうちに、だんだんこの女性に肩入れしたくなってくる。
この女性の経験はいささか特殊なものではありますが、不愉快な思いをさせられている相手なら誰にでもいるでしょうから、観客は、これはある喪主の話なんだ、と思って聞きながらも、感情移入できてしまうのでしょうね。
圧巻は、一発逆転ホームランみたいなあの台詞。
大笑いしながら、思わず拍手喝采…は、お葬式の場面なのでできませんけど、心の中ではみなさんそうだったのではないでしょうか。
あの場面はとっても気持ちよかったなあ。
女性を客観的に見る自分と、同化する自分、ブラックだと思う自分と、爽快感を覚える自分、いろんな自分がいるのですが、常におかしさも感じているのです。
複雑な大人の笑いですよね。
やっぱりペコちゃんはすごいです!

■ ナギプロパーティー
登場人物は、男性教師、その受け持ちクラスの男子生徒、生徒の両親、ある役割を担った女性(教師だったかな?)。
男子生徒の家庭環境に問題があると考えた男性教師は、家庭訪問をして生徒の両親に自分の考えを伝えようとするが…
ディスコミュニケーションがテーマのコント。
だけど、そんな深刻ぶったものではない。
ナギプロパーティーのコントは、話の転がり方が面白い。
ことごとく観客の予想を裏切るほうに向かうのです。
そして、観客は裏切られるのが、楽しい、快感なんですよね。
ありきたりの展開ではないけれど、話を作りこみすぎていない、どこかさらっとした印象なんです。
自然に、無理なく、ああいう話ができていくのだろうなと。
世間的には評価が高いコメディでも、変に凝りすぎていたり、作為が見え見えのものもありますよね。(具体例を挙げるのは差し控えさせていただきます。)
そういうものは、やっぱり見ているとしらけてしまう。
作家の才能をひけらかしたいだけなのかって。
ナギプロパーティーのコントは、話だけでなく、演者もどこかあっさりした印象です。
それは熱がないということではないのです。
ギラギラ、ガツガツした、いやな意味での野心がないということ。
リラックスした感じがいいですよね。
面白いコントなんだけど、自分たちは特別なことをしているんだという押し付けがましさがないところがいい。
あ、でも、一つだけ気になったことがありました。
なぜみんなスリッパ履いていたんだろう。
日本の家庭ならわかるけれど、英語圏の国の家庭内なら土足でいいのではないかなあ。
靴を履き替えるところだけは日本式っていう家庭なのかしら?

■ 松元ヒロ
現実のヒロさんを写したようなコント。
ヒロさんの二十代半ばの息子さん、りっぱに成人し、社会人としての責任も果たしているのだが、父親であるヒロさんの目には、どこか軟弱、頼りなげに見えて仕方ない。
自分が今の息子と同じ年の頃には、しっかりとした目標を持って生きていた。
男らしい人生を送ってきたという自負のあるらしいヒロさん。
もっとも、奥さんからは「子育てが大変な頃に何も手伝ってくれなかった」というような文句を言われてしまうのだけれど。
(観客は、ヒロさんの台詞から奥さんの台詞を想像するというしくみです。
もちろん、現実の松元家で、このような会話がなされているのかどうかは、わかりません。)
息子が生まれる日だって、自分はパントマイムの仕事をしていたんだ。
と、誇らしげな気分でいたヒロさんだが、その日のことを克明に思い出すうちに…

子供が生まれる日のお父さんって、みんなあんな気持ちなのでしょうね。
男の子でも、女の子でもかまわない。
とにかく、母子ともに無事なら。
と、最初は思うのに、無事誕生となると、いつの間にかそんなことは忘れてしまう。
子供が成長するにつれて、親の欲も出てきてしまう。
ほんとは、この世にいてくれるだけでありがたいのに。
(と、わかったようなことを書いておりますが、私は親になったことがないので、お父さんの気持ちは想像するしかありません。)

私は、カレンダーにまつわるシーンが好きです。
自宅のカレンダーに、ある言葉が書かれているのを見つけたヒロさん、奥さんに
「こんなカレンダーはずしなさい」
と言います。
「つまずいたっていいじゃないか、人間だもの」
相田みつをの有名な言葉ですが、ふがいない息子(←ヒロさんから見て)の生き方を肯定するような言葉だから、というのがその理由らしいです。
でも、きっとそれだけではない。
このシーンの奥には、ヒロさんの本心が隠されているのではないか。
つまり、
「お客さんには、自分のコントは優しさがあると評価されいるようだが、相田みつをとは違うんだぞ」
という気持ちが込められているのではないかと。
話の本筋とは関係のない、ごくごく短いシーンですが、ヒロさんの気骨が感じられるシーンでもあると私は思っています。

これは、にこにこ、クスクス、笑いながら、あったかい、優しい気持ちになれる、ヒロさんのお人柄をそのまま反映したようなお話です。
ただし、「癒し系」のドラマなどとはまったく別物なんです。
その点を、さりげなく笑いにまぶして演じられるヒロさんは、とてもすてきな大人の芸人さんだと思いました。

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