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しもきた空間リバティ「ヨージ単独ライブ」
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06/10/27 しもきた空間リバティ「ヨージ単独ライブ」
shou_chong

開演前、終演後に流れていたのは、ヨージさんサイト掲示板の文章を引用すれば「昔のアメリカドラマ大集合みたいな」CD。
私がはっきり認識できたのは「サンセット77」(原題は「77 Sunset Strip」)のテーマ曲
http://teleplay.seesaa.net/article/3138155.html
だけだったが、全体におしゃれでよい雰囲気の音楽だったと記憶している。
ヨージさんはネタだけでなく、選曲のセンスもある人だ。

■オープニングもしくはプロローグ
マイクに見立てたレンゲを片手に、歌謡曲専門の司会者に扮したヨージさん登場。
恋の歌のイントロ中という設定らしく、男女の仲、恋模様を独特の口調で述べ立てる。
しかし、実際にテレビなどで耳にするものよりも、含蓄があり、文学的香りがするところがいかにもヨージさんらしい。

コントは若い男女の会話から始まる。
同棲生活を始めるため、家探しの最中らしいカップル。
不動産屋から受け取った簡単な資料だけを頼りに、二人だけで候補物件を巡っているところ。
地図を見ても目指す建物が見つからず、疲れた二人はミニストップに立ち寄り、しばし休憩。
そこへ現れた正体不明の人物、あれこれと二人に話しかける。
三人の台詞から、その人物が「同棲反対!」を唱える「おじいさん」であるらしいことをお客はなんとなく想像する。
ただし、おじいさんらしき人物の口調は、若い男性のものとなんら変わりがない。
だから、お客は「たぶんそうなのだろうな」と思いながら三人のやりとりを聞いている。

すると、ヨージさん本人が、
「おじいさん、と言ったから(お客さんは)そう思っているだろうけど、話し方を聞いただけでは、年齢はわからないだろう」
などと、お客の心を見透かすような発言をする。
確かにヨージさんの作品では、人物の内面を描くことに重きが置かれているので(と私は思っている)、類型的、記号的、表面的な芝居には意味はないのだ。

さらにヨージさん本人は、
「(お客さんは)『(この場面には、登場人物が)三人いるだろう』と思っているだろうけど、本当は、もう一人、無口なおじいさんがいるんだ」
と、お客の誰もが予想しえなかった設定であることを告げる。
そう言われてみれば、確かに、少し前のシーンで、唐突にソフトクリームか何か(もうはっきり覚えていない)を食べる人物のしぐさが表現されていた。
あの時、「あれは三人の中の誰だろう?」と思っていたのだが、実は「無口なおじいさん」だったのか。

また、ヨージさん本人は
「(この舞台は)お客さんの想像力が頼り」だと言う。
偶然なのかどうか、これは寒空はだかさんもステージでもよく言われる台詞だ。
ただし、ヨージさんが提供してくれるストーリーのほうが、はるかに複雑である。

私が冒頭のこのシーンで一番心に残ったのは、以下の言葉。
例によって、台詞再現率は五割以下。
「今、一人で三役、四役演じているとか言っているけど、(それでお客さんの頭は混乱するような気がするかもしれないけど)、一人なら何役でもできるんだ。
かえって、コンビがそれぞれ複数の役を演じるほうが、わけがわからなくなる。
ピンでできないのは二人羽織だけだ」
そう言いながらも、一応、一人で二人羽織を演じるところがすばらしい!

二人で一人を演じる二人羽織、それを一人で演じることはできない。
というパラドックス。
一人のほうが表現の可能性は無限、自由である。複数だと限界がある、不自由である。
という哲学。

お客はヨージさん本人の台詞に大笑いしながら、その奥に潜んだ真理を察知して感動する。
そんな場面が何度も、数え切れないほど繰り返される。
ヨージさんの作品には、宝物のような言葉がぎっしり詰まっている。

■メインストーリーのようなもの
今回は、ヨージさんのおじいさん、ヨージローさんにまつわるエピソードを芯にした構成になっていた、と思う。(あくまで思うだけ。断言はできない。)

「むかし、むかし」で始まる昔話は、その後に「おじいさんと、おばあさんが住んでいました」と続くのが決まり。
しかし、「むかし、むかし」が、「どのくらい昔なのか正確にはわからないほど漠然とした大昔」という意味であるならば、登場人物の年代だけ「おじいさんと、おばあさん」のように細かく限定する必然性はないのではないか。
二人の年代をほんの少し遡って、「おにいさんと、おねえさん」にしてあげても、「むかし、むかし」で十分通用するのだから。
というわけで、ヨージさん流昔話の登場人物は「おにいさんと、おねえさん」である。
そして、「むかし」の度合いも、ヨージさん的尺度で語られる。
「バファリンの半分は優しさでできている、と言うけれど、半分より全部優しさでできていたほうがいい。昔は、百パーセント優しさでできていたのだ」
よって話の出だしは以下のようになる。
「むかし、むかし、バファリンの全部が優しさでできていたむかし、おにいさんと、おねえさんが住んでいました」

それは、ヨージさんのおじいさん、ヨージローさんが若い頃の話。
弟分、兄貴分=おにいさん、兄貴分の恋人=おねえさん=通称トミー、という三人が登場する話だが、長い上に入り組んでいるので、詳細は割愛。
お話の終盤、終戦直後のこと。
長い間実家を離れていた兄貴分が、しばらくぶりで帰省をする場面。
家の少し手前までやってくるが、中には入らない。(その様子が、実に寅さんっぽい。)
家の中にいる優しい恋人、トミー。
自分が手に入れたバファリンを自分は飲まず、全部(たぶん)恵まれない子供たちにあげている。
その様子を物陰からじっと見ている兄貴分。

兄貴分は恋人ができない弟分に、自分の恋人トミーを譲ろうとする。
それは弟分にとって「目の前にある幸せ」なのだ。
が、そのことに気がつかない弟分は、タクシーに乗って「幸せまで」行くように運転手に告げる。
運転手は「(目的地=幸せ、は)目の前にあるから行けない」と応える。
(落語「替り目」の冒頭シーンみたい。)
因みに、ヨージさんワールドでは「幸せまではタクシーでワンメーター」だそうだ。

やがて、ヨージローさんは晩年、医療と介護両面をサポートする施設に入所する。
最初のコントで登場した女性はこの施設のスタッフであり、正体不明の人物はこの施設の入所者であり、おそらくはヨージローさんであることがしだいに判明する。
(ただし、ぼんやりしていると、気づかぬままに終わる。)

その施設では、リハビリの一環なのか、あるいは認知症の進行を食い止めるためなのか、入所者にクレヨンを与え、絵を描かせる。
完成した作品が壁に飾られているのだが、どれも正気の大人が描いたと思えない、抽象的絵画ばかりである。
唯一、ヨージさんのおじいさん、ヨージローさんの作品だけは、とてもしっかりしていてまともに見える。
男の子と女の子が向かい合って絵を描いている絵だ。
「『いい絵ですねえ』と看護婦さんは褒めるけど、これはクレヨンの箱に描かれている絵なんだ」
と、ヨージさんは言い、証拠の品のクレヨンの箱もお客に見せる。
お客は大爆笑である。
つまり、ヨージさんのおじいさんは、画一的に、半強制的にクレヨンで絵を描かされることにうんざりして、クレヨンの箱の絵を見て、テキトーに真似して描いただけなのだ。
そのことに回りの誰も気づかず、「いい絵ですねえ」と褒めている。
実に皮肉でおかしな話。
無論、ヨージさんはこのエピソードに限らず、上記のような説明めいた話は一切しない。
出来事を淡々と語るだけだ。
しかし、お客に想像力さえあれば、多くを語られなくとも諸々理解して笑うことができる。
いや、逆に多くを語られたら、おもしろくない、笑えないだろう。
「お客さんの想像力が頼り」なのだ。

結局ヨージローさんは施設で息をひきとるのだが、その少し前、まだ危篤という頃、ヨージさんはお父さんに5000円渡され、「床屋に行ってこい」と言われる。
「葬式に出席するために、身なりを整えておけ」ということだ。
その散髪代を、もはや学生でもない、親元を離れて暮らしている、大の大人の息子が、父親から手渡されるのだ。
「これは30歳くらいの人ならわかるだろうけど、湿っぽい話だ」
と言うヨージさん。
(ヨージさん、ヨージさんのお父さん、どちらに焦点をあてて見ても) なんとも、情けないような、哀しいような、せつないような、曰く言いがたい、でもやはりおかしい話である。
ヨージさんの作品には、一言では言い表せない、複雑な味わいを持ったおかしさが詰まっている。

■サイドストーリーのようなもの(ほんの二例)
○例一
最初のコントに登場した若い男性の
「不動産屋が『徒歩10分』と言ったら、それは『徒歩15分』という意味だ」
という台詞から始まる話。

…それは、「できるOLの10分」だ。
仕事をてきぱきとこなし、「流鏑馬(やぶさめ)のようにコピーをするOLの10分」だ。
*私にはとうてい、一生思いつかない比喩表現だ。
いや、今世どころか、来世でも思いつくまい。
一観客である私は単純に感心するだけだが、言葉を生業とする人であれば、きっとヨージさんの言語センスに嫉妬することだろう。*

「昼休みに、カバンに入りきらないような大きな財布を持ち、制服の上にカーディガンをはおり、サンダルをはいて、3人連れで弁当を買いに行くようなOLの10分ではない」

できるOLは、仕事が忙しくて恋人を作る暇もない。
それを内心寂しく思っているが、強がりを言う。
仕事が恋人、のように。

できるOLは、外出中の上司から
「俺、今から家に帰るから、明日のプレゼンの資料頼むよ」
と電話で仕事を押しつけられ、一人残業する羽目になる。

(残業が長引き)「もうすぐ12時になってしまう」
そして「私、もうすぐ30になってしまう」と心の中でつぶやく「OLシンデレラ」。

孤独に残業する姿を警備員のおじさんに見られ、同情される「OLシンデレラ」。
「少し早いけど、メリークリスマス」と、おじさんから手渡されたプレゼントは、チョコラBB。
*クリスマスプレゼントがチョコラBBというのが泣ける。
せつなく、哀しく、ほろ苦く、でも、暖かく、優しく、そしてやっぱり、おかしい。
真に心の優しい、そして、性差別意識のない人でなければ創りえない話だと思う。*

○例二
もう一つの昔話。
「むかし、むかし、ロボットの夫婦がいました」
身体の一部が、まさかの時には武器として機能するように造られているロボット夫婦。
夫の武器は腕、妻の武器は胸なのだが、どちらの武器もパワー不足。
愛する伴侶の武器をパワーアップさせたい、と常々思っているこの夫婦。
夫は己の腕を売り、妻は己の胸を売り、それぞれ相手に役立てようと考える。
ある日、お互いの姿を見た二人(二体か?)。
「あんた、腕がないじゃないの!」
「おまえ、胸がないじゃないか!」
と、罵りあいが始まる。
*「ロボット版賢者の贈物」は、本家のように穏やかには終わらない。
しかし、夫婦がお互いを罵る言葉を聞いていても、まったく嫌悪感はわいてこない。
むしろ、せつなくて、優しい気持ちになる。そして、やっぱりおかしい。
身体の一部を売る、と聞いても、生々しさはまったく感じない。
純粋に感動だけが残る。
これは、夫婦を無生物であるロボットに置き換えたからだろう。
だれもが知っている有名な話を基にして、新たな感動を生み出す、やはりヨージさんは只者ではない。*

■心に残る、珠玉の言葉の数々
その言葉が発せられた、状況、背景を知らなければ、意味不明だ、と思われる方は素通りしてください。

「涙の数だけ強くなれるなら、ティッシュの数は経験値」

「敵なのか、味方なのか、国選弁護人」

「カバンはお菓子と夢でいっぱいだ」(宇宙旅行のネタの中の台詞)

「バカヤロー、カイサン」(セーラー服を着た吉田茂が言った言葉)

「おまえの首から上を、ナポレオンズの手品のようにしてやろうか」
(けんかの仕方を教える兄貴分が、弟分に、相手にすごみをきかせる時の例、として伝えた言葉。)

「『はじめてのチュウ』を、かっこいい男子が普通にかっこよく歌うことに意味はない。
恒常的に彼女がいて、チュウができる男子が歌っても意味がない。
この歌は、もてない男子のための歌であるべき」
(「キテレツ大百科」ネタ絡みで、ヨージさんが語られたこと。おおよその趣旨。)

■あとがきのようなもの(まえがき、ないけど)
今回もいつものように密度の濃い、非常に充実したライブだった。
終演後、客席から自然に湧き起こった拍手は、力強く、熱く、いつまでも続いていた。
これまで体験した拍手(というのもおかしな表現だが)の中でも、最も深い感動に満ちた拍手だった。

ヨージさんは孤高の人だと思う。
組織、団体に属さず、群れも作らないピン芸人さん、しかも、同様の舞台を作り上げている人も他にいない、唯一無二の存在となれば、孤独であるのは必然だ。
どこにも属さず、同じ土俵に立つ仲間(あるいはライバル)もいない。
それは、縛られる心配もないが、守られる安心もないということだ。
自由と孤独は裏腹なのだ。
それを承知した上で、潔く、覚悟を持って、孤高の人でいる。
しかも、純粋、誠実、高潔という美徳を保ちながら。
よほど精神的に強く、しなやかでなければできない生き方だと思う。
私などはとうてい真似ができない、ただあこがれるのみだ。
ヨージさんのライブを拝見して、清清しい感動を覚えるのは、ヨージさんの生き方が舞台に反映されているからなのだろう。

お終いの捨て台詞。
ヨージさんの単独ライブを楽しめる素養がありながら、未だ未体験の人は人生の一部を確実に損している。
銀のエンゼル×5=金のエンゼル×1
ですが、
ヨージ体験(@いわゆるお笑いライブ)×5≠ヨージ体験(@単独ライブ)×1
ですからね!

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