07/3/9.10 両国シアターX「山本光洋・かかしになるために」
「大道芸アジア月報」より転載
http://www.k4.dion.ne.jp/~daiajia/
上島敏昭
「パントマイムの夕べ」は山本光洋のソロライブで、彼がおこなっている連続公演「かかしになるために」の特別バージョンでもあった。
名づけて「かかしになるために Best of Best」。
演目は、もはやお馴染み、あやつり人形の「チャーリー山本」と、「老人と海(仮題)」の2作品。
「チャーリー山本」はもはや立派な寄席芸。
むかし、雷門助六師が寄席の色物として「あやつり」を演じていたことを思い出した。
パントマイムといいながら、適当にしゃべったりするのも、お気楽で楽しい。
これを前座芸として演じ、10分ほどの休憩をとってからはじまった次の作品は、しかし、寄席芸ではなかった。
連続公演で演じてきた老人をテーマにした作品を、オムニバスとして再構成したもので、まさに山本光洋ワールドとしかいいようがない、刺激的な舞台だった。
客電が落ちると、真っ暗な舞台で何かがうごめいている。
ゆっくりと照明が上がっていくと、男が仰向けになって手足をゆっくりと、もがくように動いているのが見えてくる。
赤ん坊のようにも、海草が漂っているようにも見える。
やがて男はゆっくりと立ち上がり、正面をみつめる・・・という始まり。
チャーリーとは打って変わった静かな始まりで、最初は唖然としたが、適度に緊張感の漂う舞台に、次第に引き込まれていった。
彼の舞台はもともとパントマイムの規格からはずれているが、この作品でも同様で、たとえば、サカナの人形を手に持って動かすというシーンがある。マイムというより、人形遣いだ。
もっと進んで、ラジカセに、「ヘッヘッヘ・・・、ガウガウ・・・」 と吹き込んで、あとでそれを再生しながら、ラジカセ自体を犬がわりにして戯れたりもする。
初演のときは、「コント」だと思ってみていたのだが、今回、オムニバス作品の中の「ワンシーン」としてみると、老人の幻想、あるいは妄想、もしくは孤独からの逃避、のように感じられた。
妄想といえば、バーチャルリアリティゲームをテーマにしたシーンもあった。
メガネをつけると、筋肉が盛り上がり、敵の銃弾を掻い潜り、優秀な戦闘員となって戦う・・・が、タイムオーバーとなると元の貧弱な老人に戻ってしまう。この落差が可笑しい。つぎに同じゲームで、妻や子どもと一緒に海岸で遊ぶ。戦闘員というのが現実離れしていただけに、この陳腐な小市民性がおかしかったのだが、タイムオーバー後の、老人のやるせい姿をみると、彼の若いころは・・・、妻や子は・・・など、いろいろな想像をかきたてられて、可笑しいというより、胸がいたんだ。
それに追い討ちをかけるように、キューピー人形を赤ん坊がわりにして遊ぶシーンが続いた。
しばらく遊んだあとで、その首の中から砂がザーッと流れ出した。
小さな人形の首からかなり長い時間、砂が流れ続ける。
それをみていると、まるで赤ん坊が砂になって消えてしまうような儚い印象で、なんとも切なかった。
イス付きの手押し車で交差点を渡る悪戦苦闘や青春時代に流行った音楽に合わせてダンスして身体を痛める、というスケッチのあとの、記念写真を撮るシーン。
赤ん坊、幼児、少年、青年、壮年、老人・・・と、次々に一瞬のポーズが切り取られていく。
老人自身の記念写真なのか、家族なのか、それとも・・・。説明はないまま、正面をみつめる男の姿でステージは終わった。
この「老人」は、みっともない。しかし、そのみっともない身体に刻まれた人生は、多様で深い。
時に笑い、時に斜に構えて見ていた私は、そこに私自身を見たような気がして、苦い思いで帰途についた。
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