馬車道おきらくシアターVol.8 
「楠美津香ひとりコント〜東京美人百景」
内幸町ホール「東西若手落語家コンペティション 2007」
内幸町ホール「東西若手落語家コンペティション 2007」
「寒空はだかカラフルロスタイムショーVOL.4 with
彦ちゃん&栗Q」
大阪・天満天神繁昌亭
「桂あやめ落語家25周年★五日のあやめ〜
一日三席相勤めます〜」
アルカイックホールオクト(大阪・尼崎)
「春風亭昇太独演会 オレスタイル」
しもきた空間リバティ「絹15セレクト シャラポワ寄席」
しもきた空間リバティ「絹15セレクト ヨージベストライブ」
桂あやめ落語家25周年★五日のあやめ〜一日三席相勤めます〜
長野県民文化会館「清水ミチコのお楽しみ会」
●しもきた空間リバティ「ヨージ単独ライブ」
しもきた空間リバティ「絹15セレクト ヨージ単独ライブ」
銀座みゆき館劇場「丸山おさむシークレットライブ至極の
なかの芸能小劇場「せめ達磨アパッチ vol.08」
シアターIWATO「東京モザイ区」
●池袋・シアターグリーンBOX IN BOX が〜まるちょば 
HIRO-PONソロ舞台公演「SEX, HIRO-PON,
まつもと市民芸術館「志の輔独演会」
なかの芸能小劇場 「ヨージ単独ライブ」
高円寺Club LINER「宮城マリオ・ゲストライブ」
武蔵小山カフェアゲイン「カフェ落語」
Apple Store Ginza --2:00 p.m. - 3:30 p.m.
「関東落研連合プロデュース公演:喬太郎に挑む学生落語家」
 
両国シアターX
「マルセ太郎メモリアルシリーズVol.3花咲く家の物語2007」
下北沢BigChief「講談大酋長」
内幸町ホール「東西若手落語家コンンペティション」
国立演芸場「イエス玉川独演会」

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07/5/28 しもきた空間リバティ「絹15セレクト ヨージベストライブ」
shou_chong

■まえがき
タイトルはベストライブ、しかし過去作品の完全な再現ではない。
過去に披露されたネタも盛り込まれていたが、数で言えば新ネタの方が多い。
おなじみのネタにしても、細部が微妙に変化しているものもある。
各ネタの配置、組み合わせも、おそらく今回初めて試されたものであろう。
そして、作品全体の芯となるストーリーは、新たに作られたものだ。
となれば、終演後の印象はやはり新作だ。
毎回新作というのはヨージさん単独ライブの特徴だと思う。
(アイディア豊富な人なので、浮かんだネタはどんどん舞台にかけたくなるのだろう。
ヨージさんサイトの掲示板、5/19のご本人の書き込みをご参照あれ。
http://ip.tosp.co.jp/i.asp?i=youjimote   )
そもそもヨージさんの作品、舞台はヨージさん独自のものであり、おそらく他の誰も成しえていないきわめて進化したものだ。
だから、いつ観ても新しい、新鮮な印象を受ける。
その一方で、作品を観て喚起される感情は、過去に経験した憶えのあるものであったりもする。(それが全てではないが)
また、既存の作品(映画、マンガ、落語など)を基に、ヨージさん流にアレンジして創り上げられたと思しきネタもある。
だから初めて観るのに、なぜかなつかしさを覚えるのだ。
しかし、決して古臭くはないのである。
デジャヴという感覚に近いかもしれない。
新しさとなつかしさ。
新作と古典。
未来と過去。
相反するものが同居というより、ねじれながら繋がっているのが、ヨージさん作品の特徴の一つである。
(伝言ゲーム50人目の感想。)

■メインストーリーのようなもの
大雑把に言ってしまえば、セツコの小学校時代から二十歳前後までの成長記録。
ただし例によって話は時系列では進まない。
間に一見無関係に見えるエピソードがいくつも挟まれるのも毎度のこと。
・小学校時代
デブのお兄ちゃんが疎ましくて仕方ないお年頃。
学校では結構男子に人気があるらしく、リコーダーの上部を盗られるという事件?も発生。
犯人は自分のリコーダーの上部とすり替えた後に、それを吹くのが夢だった。
*間接キスの願望という単純な話ではなく、上部だけすり替えたリコーダーを吹くというところが、いかにもヨージさんらしいひねり方で妙におかしい。
しかも、この事件の真犯人は探偵で、それを見抜いていたセツコが探偵を罠にはめていたという凝った展開。
「アクロイド殺人事件」より複雑かも。
・(たぶん)中学校時代
勉強中に話しかけてくるお父さんが疎ましいお年頃。
学校の部活動は女子歴史部に所属、活発に活動していたが、練習中に病気の発作で?倒れる。
・高校時代
病気のためまともに通学ができず、大検を受ける決心をする。
担任教師の課外授業を受けるうち、恋愛関係に。
・二十歳前後
セツコの治療費を得るため、恋人(教師なのか、もとクラスメートなのかは不明)は銀行強盗を決行。

以上の話はどれも断片的に語られたものである。
細部は私の貧しい想像力で補ったり、過去に語られた話から類推したりして理解している。
ゆえに決して完全形ではないので、間違っているからといって責めないでいただきたい。
この世に完全な理解などありえないのだ、ということを再認識させてくれるだけでも、ヨージさんの作品は偉大である。

■心に残るネタ、エピソード、お言葉、あれこれ
(詳細な説明は不可能のため、概要のみです。あしからず。)
○ファースト&ラストシーン
・ファーストシーン
銃に見立てたビニール傘(記憶曖昧)を持った銀行強盗。
極めて冷静な頭脳犯タイプ。
警察が駆けつける前に逃走するには何分で仕事をかたづけるべきか、という計算もしっかりできている。
その数分の待ち時間の間に一ネタ披露する犯人。
*ネタそのものは面白い。(具体的にどんなネタだったかは忘却の彼方)
それを冷静に淡々と語る様がなおさらおかしい。
しかも、かなりかっこいい。
面白いとかっこいいは同時に成立するのだ。
・ラストシーン
逃走中の犯人。
まず車に乗り込む。
どうやら盗難車らしい。
運転しているのはおそらくセツコの父。
(犯人が、おとうさん、と呼んでいるところから推察。
つまりは、難病にかかったセツコの治療費を得るために金を強奪したのであろう。
過去にも似た設定の話が披露されていた。↓
http://uzumarishiro.web.fc2.com/kaguyahime/ground/326-350/ground-335.html  )
それから車を降り、自転車に乗り換える。
(これも、たぶん盗んだ自転車であるように観客に思わせる仕掛けが随所に施されている)
警察の検問に引っかかるが、自転車が盗難車かどうかだけを疑われている様子なので安心する犯人。
が、巨大なスポーツバッグ(学生が部活に使うタイプ)を開けるように言われ、犯人危うし…と思ったら、中身は札束に非ず、モテたい部のジャージだった、という落ち。
(終演後、そのジャージを販売していました。)
*盗んだ自転車、という小道具は、どうやら「オザキその後に」というCMネタ(=オザキにかぶれた中学生にスプレーすると、素直なよい子にもどり、盗んだバイクを返しに行くというネタ)にからんでいるような気がする。
(ほとんどのみなさんがご存知とは思うが、尾崎豊の「十五の夜」に「盗んだバイクで走り出す」という一節があるのだ)
一般的にはバイク=オートバイだが、この場合はバイク=bike=bicycleではないかと。
深読みしすぎかなあ。
なお、舞台の半ばあたりで、ある人物が車や自転車を盗まれるという話が語られている。
このエンディングはその話ともリンクしていると思われる。

○100人物語(勝手に命名)
「やっぱりイナバ、100人乗っても大丈夫!」というおなじみのキャッチコピーを基に、泉のようにわいて出る傑作ネタの数々。
しかし、いかんせん当方の頭脳に問題があり、記憶に残っているのはごくわずか。
・屋根に乗る稲葉の社員の体重は一人一人違うから、男女計100人の重みでちょうど大丈夫なように人選するのは難しい。
女性は正直に体重を言わないことが多いから、自己申告をそのまま信用し、単純に加算した総重量で大丈夫と考えてはいけない。
自己申告より多めに見積もった上で、耐過重量ギリギリ大丈夫な総重量になるような人選にし、屋根に乗ってもらう。
が、あまりにギリギリだったので、そこに手乗り文鳥が乗っただけで、バランスがくずれ物置はつぶれる。
・手乗り文鳥大発生(ヒッチコックの「鳥」のようなお話だったような…)
・世界が100人の○○だったら
(世界が100人のお笑い芸人だったら、というネタがあったと記憶しているが、そしてかなりリアルで笑えたと思うのだが、具体的内容までは思い出せず。)

○「世の中には…」
「『世の中には二種類の人間がいる』と、言うやつと、言わないやつ、二種類の人間がいる」
オリジナルはキムタクのCM。
「世の中には二種類の人間がいる。開いているやつと、閉じているやつ」
「僕はもちろん閉じているやつだった」と言うヨージさん。
キムタクタイプの男子は、小学校時代、野球とサッカー両方やっていた。
そして男子仲間で作った秘密基地に、ボクラ共和国という名前をつける。
(*いかにも、と思わせる言語センスだ)
だが、そのうちに(たぶん女子にモテるタイプなので)基地にはやってこなくなる。
*ありがちな話。

○当日ライブで配られた参考資料(そのまま転載)     
ボクラ共和国の法りつ
スターソルジャー

  1. 基地のヒミツをもらすな
  2. 女子とクチきかない同盟

やぶったら死、とくにペンギン軍団

  1. チャリはサドルをつけない

○ペンギンと呼ばれた女子
小学校時代、ペンギンとあだ名をつけられた女子。
外見はさえない、真面目な生徒。
地図記号暗記コンテストで優勝するタイプ。
(*テストで百点取るタイプという表現では、ただの優等生というだけで面白みがないが、地図記号暗記コンテストというのはマニアックかつヨージさんらしいセンスで笑える。
やはりヨージさんは目の付け所が違う!)
だが、中学校に入って一変。
外見は派手に、男子の間でも「かわいくね?」と話題にのぼるようになり、自分から男子にコクる(=告白する)までに変貌を遂げる。
数年後、成人式後の二次会では、コクった相手の男子とトイレの前でヒソヒソ話をする。
破綻しかけた関係を修復したいらしいペンギン。
トイレにいるヨージさんは、その会話が耳に入り、いづらい気分に。
*真面目だった女子が急に正反対の方向に走るという話はよくあること。
私の同級生にもいたなあ、と思い出した。(今はすっかり落ち着いていると思うけど。)
(完全なノンフィクションではないのだろうが)トイレにいたヨージさんには気の毒だが、
その場面を想像すると、じわじわとおかしい。

○教頭の不思議
普段何をしているのかよくわからない教頭。
担任もなければ、授業もしない。
花壇の手入れや木の手入ればかりしている。
存在自体が疑問。
校長という長(おさ)がいるのに、教頭は頭(かしら、ヘッド)なのだ。
*などと、前半では笑いのネタにされた教頭が、後半では銃を扱う過激なキャラクターとして登場したりするので、お客はぼんやりしていてはダメなのだ。

○数学的命題と恋愛的命題
・数学的命題
チクワとチーズを左右双方から同時に投げた時、空中でチーカマになる確率を求めよ。
ただし空気の抵抗はないものとする。
*チクワという時点で、カマボコにはなりえないと思うが…
・恋愛的命題
教師(=セツコの担任)と教え子(=セツコ)が結ばれる確率を求めよ。
ただし世間の抵抗はないものとする。
・恋愛的命題に対する評価
(セツコの担任教師を指導したと思しき教師の言葉)
「数学は0点だが、男の美学は100点」
*まさに、男の美学は100点、のヨージさん。
この時、客席からは同意と賞賛の拍手が湧き起こった。
ヨージさん、カッコイイ!

■あとがきに代えて とりとめのない感想
ヨージさんの作品は、非常に情報量が多く、進行が早く、かつ複雑にできている。
だからこそ非常に面白いのだが、笑っているうちに過去に見たシーンの細部を忘れてしまったり、情報をその場で処理、理解しきれないうちに、次のシーンに移ってしまうということも少なくない。
(ああ、情けない!)
そこで仕方なく、己の容量の少ない脳みそに残っていたわずかな情報を取り出したり、理解しきれなかった部分は貧しい想像力で補ったりしながら鑑賞することになる。
ゆえに上演中は脳みそ大忙しなのだ。
終演後は多少のゆとりがあるので、鑑賞したものを自分なりに反芻することができる。
全体を見つめなおしたり、細部を確認したり、話と話のつながり具合に目を向けたり、忘れかけていたシーンを思い出したり、理解できなかった部分を考え直したり。
しかし、これもあまりのんびりしていると、時間に比例して記憶の部屋から消えていく情報量も増えていくので(そのスピードは異常に速い!)、全てを忘れたくなければ文字に残しておかねばならない。
(それで、こんな無謀なレポートを書いているというわけだ。)

もしライブDVDが出ていたら、こんな苦労はせずにすむのだが。
何度でも楽しめるし、忘れていた部分、理解不能だった部分も見直すことができる。
とは思うものの、もしDVDがあったとしても、その鑑賞法は舞台を拝見する時と同様に、初めから終わりまで、そのまま再生するのが望ましいような気がする。
途中で止めたり、前の部分に遡ったり、飛ばして見たり、という方法ではヨージさん作品の本来のよさは味わえないのではないか。
もともとヨージさん作品の構造自体が、時間、空間を飛び越えて進んでいくものなのだから、機械にまかせるのではなく、終演後、自分の頭の中で、止めたり、遡ったり、飛ばして見たりする方が楽しめるのだと思う。

情報量が多く、進行が早く、複雑、という特徴は、一般的には観客に不親切と受け取られるであろう。
わかりやすさを是とする人には嫌われると思う。
しかし、不親切だからこそ、観客は自分なりに欠けた部分を足しながら見られるのではないか。
忘れたり理解できなかった部分は、補いながら見ることもヨージさん作品の楽しみ方の一つのような気がするのだ。

ヨージさんほどの才能のある人なら、わかりやすい話を創り、それなりに感心、感動を与えることなど簡単にできるのではないかと思う。
しかし、それはあくまでも、それなり、そこそこの作品でしかありえない。
たぶん、ヨージさんが目指しているものはもっと進化した、先にあるものなのだ。
ヨージさんは観客の想像力、創造力を信じて、わざと一見不親切な作品を創っているのではないか。
それがヨージさん流のサービス精神なのではないか。

そもそも百パーセントの理解などありえないのだし(それは演芸評論家の先生にしても同じであろう)、表現者が提示したものとまるで違うものを想像しない限りは、解釈は観客が各自で楽しめばよい、という自由さはとても心地よい。
ヨージさんは、作品を通して観客の脳みそを解放してくれているのだろう。

ヨージさんの作品を拝見していると、記憶が薄れていくはかなさや、それを留めておくことのできないもどかしさ、せつなさの中にも美があるように感じられる。
完璧なものだけが美しいのではなく、不完全なもの、消えかけていくものにも美があるのだと感じるのだ。

と勝手な感想を述べてみたが、案外ヨージさんは
「僕は単に、こういうスタイルでしか作品ができないのですよ」
などとおっしゃるのかもしれない。
それが真相でもかまわない。
とにかく、これだけ複雑な作品を舞台にかける表現者がいて、それを楽しむ観客がいるというだけで十分嬉しいことだと思うのだ。

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