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07/5/3 なかの芸能小劇場 「ヨージ単独ライブ」
shou_chong

■メインストーリーのようなもの
(*例によって、上演中は一切メモをとらずに観ておりますので、細部の記憶はかなり曖昧です。
登場人物名も正しくないかもしれませんが、あしからずご了承ください。)

高校時代、シングルマザーとなったゴウトクジサユリ(漢字で書けば豪徳寺小百合?)。
昼間は測量、夜はハンバーガーショップのアルバイトをしながら娘のセツコを育てている。
セツコは小学校低学年にして成人男子を逆ナンする(女子が男子をナンパするの意)行動派。
だが、やがてナンパした相手ヨージを、カレシよりは新たな父親候補ととらえるようになり、母親サユリに紹介。
セツコの仲立ちで二人は結婚。
しかし、サユリは若くして他界。
継父であるヨージに育てられたセツコだが、無事に成人し、(おそらく)同年代のカレシもでき、結婚の運びとなる。
結婚式当日、ヨージは花嫁の父として都道府県名のシャレを織り込んだ祝辞を始めるが…

母親サユリの高校時代から始まり、娘セツコの結婚で終わる長い話。
ではあるが、ヨージさんが提供してくれるのは、その二十数年の時間のうちの、ごく限られた数シーンのみである。
したがって各シーンを時系列に並べただけでは、話は把握できない。
隙間の部分は、観客が各自想像力で補うしかない。
しかも、例によって、これらのシーンは他のエピソードと絡み合いながら語られるので、頭の中で整理をしながら理解する必要もある。
そういう意味では、観客参加型舞台と言えなくもない。

おそらく私の頭で理解しえたものは、ヨージさんが形作ったものとは、かなりずれているのではないかと思う。
何しろ、話と話の隙間を埋めるつなぎの部分はこちら持ち、自家製なのだから。
ゆえに、私のライブレポートはまるっきりの出鱈目とは言わないが、あまり正確なものではないと思う。
精度で言えば、伝言ゲームのおしまいの人並みだろう。
それも50人くらい参加した場合の。
もっとも、これはヨージさんライブレポートに限った話ではないが。
表現者とは脳みそのできが違うのだから仕方がない。
それでも(=伝言ゲーム50人目くらいの理解力しかない観客でも)楽しめるのが、ヨージさんのような才能ある表現者の偉大なところである。

■心に残る名シーンほんの三例

・サユリとメガネ番長(勝手に命名)

高校生サユリはメガネ番長とつきあい、彼の子を宿している。
しかしメガネ番長には父親であるという自覚はない。
勉強好きらしいメガネ番長は、教室で自習中にサユリに話しかけられても、おしゃべりに興じることはない。
サユリはいささか気分を害し校庭に出る。
そこに待ち構えていたのが、敵役のドクガンリュウ(独眼流?)マサオ。
サユリを捕らえ磔のように拘束してしまう。
サユリの危機を子分肌の男子から聞かされたメガネ番長、4階にある教室の窓から校庭へと飛び降りる。
(メガネ番長のメガネは、空飛ぶメガネだったのだ!)
マサオはサユリの衣服を(たぶん)刀でズタズタにして、剥ぎ取っている。
(初代キューティーハニーの衣服が裂けるシーンに限りなく近い印象。)
大ピンチのサユリの下へかけつけたメガネ番長。
手にした視力検査に使う目隠し棒で、サユリの中央部を隠す。
ヒーローに救出され、両手をあげ喜ぶサユリ。
しかし、メガネ番長に「胸が丸見え!」と指摘され、あわてて胸を隠すサユリ。
メガネ番長はマサオをやっつけ、めでたしめでたし。

このシーンでおおいに活躍するのが目隠し棒である。
(正式名称は遮眼子というらしい。)
マサオの眼帯になったり、
1本でばいきんまんのUFOの操縦レバーになったり、
(「《ばいきんまんになじみのない》もう少し上の世代の人には」と前置きがあった上で)2本で鉄人28号のリモコン(本当はラジコンなんだけど)の操縦レバーになったり。
これまでの作品でも、ヨージさんは、れんげ、造花、靴べらといった小道具を、噺家さんの手ぬぐいや扇子のように巧みに扱っていた。
話のつくりからも察せられることだが、ヨージさんはきっとかなりの落語好きに相違ない。
(ただし、伝言ゲームの50人目が言うことですから、鵜呑みにしてはいけません。)
この話自体は、展開の仕方、味わい、どちらの面においても、非常にマンガ的にできていると思う。
私が具体的にイメージするのは、ちばてつやの学園もの、永井豪のお色気もの(永井豪作品に官能とかエロティシズムいう言葉はそぐわない気がする)、タツノコプロのタイムボカンシリーズなどだが、むろん人によって思いうかべる作品は違うだろう。
ともあれ、マンガ的な話の中に(ご本人が意識しているか否かは別として)落語的な要素がところどころ顔を出すところが、ヨージさんらしく魅力的だと私は感じている。

・愛の告白シーン

ドラマや映画の、愛の告白やプロポーズのシーン。
周囲の喧騒に紛れ肝心の言葉が届かず、女子が男子に向かって聞き返すというパターン。
月並みで、いかにもありがちだ、という感想が今作品の前半で述べられる。
この感想はひとつのネタの中に組み込まれていたので、私はただ「そのとおりだなあ」と思って聞いていた。
が、この月並みなパターンが思わぬ進化を遂げて、作品の後半で復活するのである。

それは、ヨージがサユリに愛の告白をするシーンである。
ヨージの言葉は周囲の騒音にかき消され、サユリの耳に届かない。
「僕は…………」
「え、聞こえないよ。なんて言ったの?」
というやり取りが何度か繰り返される。
それだけなら今までのドラマと同じだが、ヨージさんのヨージさんたるところは、この騒音が人の声や車の行きかう音ではないということだ。
では、何かといえば、これがなんと……第一回ピヨピヨサンダルマラソンの足音、なのである。
マラソンに出場した選手が全員ピヨピヨサンダルを履き、ピヨピヨ音をさせながら走っているのである。
だからヨージの言葉の…の部分は全てピヨピヨなのだ。
と文字で説明してもおもしろさがどの程度伝わるものかわからないが、ヨージさんのピヨピヨ混じりの、と言うより、ピヨピヨ9割の愛の告白は猛烈におかしかった。
再現できないのが悔しい限りである。

ピヨピヨサンダルマラソンなんて発想がどうしたら生まれるのか?
それだけでも十分おかしいのに、さらに一歩進めて、その騒音で愛の告白がかき消されるシーンまで創り上げるとは。
何度も言うようだが、やはりヨージさんは天才だ!

陳腐なネタなどを批判するのは簡単だが、そのネタを基にしておもしろい話に仕上げるのは、よほどの創造力がなければ難しいと思う。
http://uzumarishiro.web.fc2.com/kaguyahime/ground/400-425/ground-407.html
の「安易なネタを歓迎する風潮に対する批判精神」の部分で、似たようなことを書いています。)
しかもその話を、きちんと伏線を張った上で、作品全体の流れも踏まえつつ、最も効果的な場所に据えるには、かなりの構成力も必要だろう。
これは、単なるパロディ作品を作る作業に比べると、はるかに難易度の高い、かつエネルギーも要する苦行のように思われる。
(と感じるのは、私が凡人だからだろうが。)
しかし、ピヨピヨサンダルマラソンというネタは、独立した形で鑑賞するよりも、今回のように長い作品の中の一部として観るほうが、はるかに深みがあっておもしろいのである。
ヨージさんの作品作りの苦労は無駄ではないということだ。
もっとも、天才ヨージさんは苦労など感じていないのかもしれないが。

ピヨピヨサンダルマラソンはほんの一例である。
単なる現象、出来事、あるいは登場人物の台詞として淡々と語られていた話の一部が、後に思わぬ形に変化して提示される。
これは、ヨージさん作品の一つの大きな特徴と言ってもよいだろう。
(伝言ゲーム50人目の意見だが。)
私はこの特徴を確認する度に「あっ!」と思うのだが、ヨージさん作品には、ほかにもさまざまな種類の興味深い仕掛けがあちこちに用意されているので、全て記憶に留めておくことは不可能なのだ。
ゆえに人には説明ができず、それも悔しい限りなのだが、この、驚き→納得→感動という一連の気持ちの変化を楽しめるのは、作品を見た者だけの特権でもあるから、それはそれでよいのかもしれないとも思う。

・逆ナンする小学生女子

素のヨージさんらしきキャラクターが語るところによれば、ヨージさんは小学生女子によく話しかけられるらしい。
ヨージさんがジュースを飲んで一休みしていたら、「それ、何?」「おいしい?」と声をかけてきたのは小学校低学年の女子。
一つ一つ質問に答え、応対していたら、「(これ)見る?」と何やら袋から出してきた。
それは彼女が図書館から借りてきた紙芝居。
彼女につきあい、「かもとりごんべえ」を鑑賞するヨージさん。
(ただし、その内容は原作とはずいぶん違っていた。)
その様子を不審に思われたのか、通りかかった警官から職務質問を受ける。
しかし、ヨージさんにやましいところはないので、すぐに疑いは晴れ、警官は去っていく。
ヨージさんは小学校低学年女子に向かって優しく言う。
「悪い人もいるのだから、だれにでも紙芝居をやっちゃだめだよ」

この話がすべて事実なのかどうかはともかく、ヨージさんが小学生女子によく声をかけられる(ヨージさん風に言えば逆ナンされる)というのは本当のことだと思う。
小学生女子には、「この人はいい人だ」とわかるのだろう。
おませな小学生女子と、女子におされ気味になりながらも話につきあうヨージさんの様子が、そこはかとなくおかしく微笑ましい、そしてヨージさんの優しさが全体ににじんでいるとてもいい話だと思う。
(ご当人には「己の優しさをアピールしよう」などという意図は微塵もないのだろうが。)

やがて、この小学生女子の話に、ヨージを逆ナンするセツコの話が重なっていく。
(ついでに言えば、「かもとりごんべえ」の話は、ヨージさん風昔話へと発展していく。
ヨージさん作品は油断がならないのだ。)
セツコは、新たな父親として迎え入れた後も、ヨージのことを「ヨージさん」と呼び続ける。
その理由を弟(=サユリとヨージとの間にできた弟。ただし作品の中で、彼に関する説明は一切ない。セツコの結婚式間直に電話で話す様子から、彼はセツコの弟だと観客が判断するだけだ。)に問われ、セツコはこう答える。
「私が初めて逆ナンした男だから」
つまりセツコはヨージを、カレシであり父親、と見ていたということか。
女子には、実年齢がいくつであれ、成熟した大人の女性の部分が備わっているということなのか?
実際にヨージさんを逆ナンする小学生女子の話と併せて考えると、なかなか興味深い印象的な台詞であると思う。

■ とりとめのない感想

記憶というものが人間の脳の中でどのように処理され収納されているのか、医学的なことは私にはよくわからない。
ただ、これまでのところ、自分の脳に限って言えば、さほど重要でない記憶は一部屋に押し込められ、地層が堆積するように古い順に積み重ねられているのだろうと漠然と思っていた。
だから、古い記憶を呼び覚まそうとすると、地層の奥深くまで掘り起こさなければならず苦労する。
一方、印象深い記憶は別格で、脳の中でも地層の部屋とは別室にあり、しかも一部屋にひとつの記憶しか収納されておらず、ゆえに簡単に呼び出すことができる。
そんなイメージを抱いていた。
しかし、ヨージさんの作品を拝見すると、ヨージさんの脳では、私の脳とはまったく違う方法で記憶が処理されているように思われる。
ヨージさんの記憶は地層のように垂直に積み重ねられているのではなく、すべてが本棚の本のように水平に並んでいるような印象を受ける。
だから、どんな種類の記憶も、新旧に関わらず自在に取り出すことができるのではないか。
前回のライブレポートで私は次のような感想を述べた。
「ヨージさんワールドでは、すべての出来事が水平に並んでいるように見える。
私はヨージさんのこの公平性がとても好きだ。
本来、どんな出来事も事実は事実であり、それ以上でも、それ以下でもない。
きっと、その重要性や優劣なるものは受け止める人間が勝手に決め、特定の色をつけて語るものなのだろう。」
つまりは、ヨージさんワールドでは、出来事の記憶がすべて水平に公平に並んでいるということなのなのだろう。
だから時間的に古い出来事を語る時も、個人的な思い入れといったバイアスがかかることはない。
一般的に思い出は美化される傾向にあるものだが、ヨージさん作品の中で語られる子供時代の出来事は(それがフィクションであれ、ノンフィクションであれ)、まったく事実そのままという印象なのだ。
ヨージさんは、出来事も、そしてその出来事を受け止めたときの感情も、子供時代をそっくりそのまま取り出しているように思われる。
ヨージさんが描くのは、「世界名作劇場」に登場するような健気な子供たちではない。
大人から見れば、くだらないこと、おバカなことに喜びを感じている、ごく当たり前の子供たちだ。

具体例
1.<「ババア」のような悪い言葉を発する欲望に、「あらがえない」小学校低学年男子>
自分が小学校低学年女子の頃、「男子って、どうしてああいう汚い言葉を使いたがるのかしら?」と眉をひそめていたものだが、今、ヨージさんの口から「あらがえない」と聞くと、妙に納得してしまう。
「あらがえない」なら仕方ないなあ。
2.<校庭でボール遊びをしていて、誰かが「最後に触ったやつがボールをしまうんだぜ」と言ったら、必死になって「最後に触ったやつ」にはなるまいとする小学生男子>
「(最後に触ったのは)俺じゃねえよ!」とむきになる男子。
大人になったヨージさんが言うように、「体育倉庫にボールをしまうだけのことなのに」なにがそんなにいやなのか。
女子であればたぶん、仲良し二人組みが仲良くしまいにいくだけなのではなかろうか。
小学生男子は、突発的におバカなゲームを考えて、おバカなルールに従うのが好きなんだなあ。

よく「少年の心を忘れない男性」などという表現を目にすることがあるけれど、そこには、「少年=無垢、純粋」という前提があるように思われる。
しかし実際の少年は、必ずしも無垢でもなければ純粋でもない、ヨージさんが語る程度におバカな存在であろう。
この表現を主に男性側が発信する時、大人になっても無垢、純粋である己をアピールしたがっている、実はあまり無垢でも純粋でもない成人男子の下心が隠されているような気がして、かつての小学生女子、現在はひねた成人女子の私は胡散臭く感じてしまうのだ。
その点、子供時代の思い出を美化することなく、ありのままに見せてくれるヨージさんは実に正直で誠実だ。
表現者として、本質的、根本的なところで嘘をついていない、信用できる人だと思う。
だから、ヨージさんワールド内でどんなに騙されようとも、観客は爽快な気分でいられるのではないかと思う。

           

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