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05/06/12 中野studio twl
「ヨージ単独ライブ『ヨージ(モテたい部)ショー』」
shou_chong
3月に引き続き満席、大盛況の会だった。去年の夏初めてソロライブを拝見した時は客席にかなりの余裕があったのだが。短期間にヨージさんファンは急増しているようだ。
ヨージさんの小学校時代、同級生だったヤスコさん、成人してから難病に侵される。
手術費を得るために恋人は銀行強盗を試みる。
彼の武器はピストルならぬ水道の蛇口。
「言うことをきかないと、蛇口をひねるぞ!」と脅し、金を強奪しようとする。
が、なにかのはずみで本当に蛇口が閉まらなくなり、銀行は大水におそわれる。
一方、不況で経営がたちゆかなくなった中華料理屋のトクさん(日本語は片言だが、頑固な職人気質の料理人)も銀行を訪れていた。
ただし、トクさんがいたのは建物の別の階。
トクさんはヘーデルアイスという名のアイスクリームを食べ、結果放出されたガスにライターの火が引火、大火事となる。
銀行強盗を試みた恋人は、大水と大火事(むろん元ネタは有名な謎々である)を同時にひき起こした犯人として、一人で罪をかぶり刑務所へ。
その後、ヤスコさんは手術が間に合わず死亡。
医者である父親はヤスコさんのクローンをつくる。
(鉄腕アトムの天馬博士のエピソードのようだ。現実問題、クローン技術を使うにしても、いきなり成人した人間を誕生させることはできない。アンドロイドやサイボーグではないのだから。しかし、時間、空間の瞬間移動が当然のようになされるのがヨージさんワールドであるから、ここだけ冷静なツッコミを入れても仕方がない。)
クローンのヤスコさんには子供の頃の思い出がない。
そこで思い出売りのおじさん(=素のヨージさんに近いキャラクター)から思い出を買おうとする。
この時、ヤスコさんらしき女の子は、おじさんからお譲ちゃんと呼ばれていたことを考えると、時空を遡り、子供になって思い出を求めていたのかもしれない。
(おじさんが最初に売った思い出が確か30円。それだけでは足りないと言われ、オマケにつけた思い出が確か600円。ヨージさんの作品には、こういう意図的な矛盾もところどころに存在する。)
これがメインストーリーと言えば言えなくもないが、そう断言できるほど単純な構成ではない。
そもそも、上に書いた順にエピソードが語られたわけではない。
それに、ヤスコさんの父親がクローンをつくるという話も、入れ子構造になっているため、本当かどうかわからない。
この他にも、思い出売りのおじさんが語る話、ヨージさんの学生時代の話、クローンではない本来のヤスコさんが実際に体験したであろう出来事、芸人ヨージさんのオーディション風景、医者と訪れる科を間違えた患者との会話、北千住にデートに出かけるカップルの話、トクさんの話、ヤスコさんの恋人が収容された刑務所内の受刑者同士の会話等等、全てが複雑にからみあいながら展開していく。しかも、その間に秀逸なギャグが数え切れないほど連発され、ほぼ同じようなエピソードがところどころ台詞、落ちを微妙に変え、何度か繰り返されたりもする。(間違い探しのようだ。)
およそ明確な起承転結など存在しない、メインストーリー、サイドストーリーの区別さえつきかねる曖昧模糊とした舞台である。
が、それでいてコントの羅列にはなっていない。
観客の心に、一つの作品を見た、という印象は確実に残してくれる舞台でもある。
そこがすごいと思う。
複雑な構成の舞台であるから、観客は頭の中でネタの再構成を行うことになる。組み合わせは各自自由。自分なりの舞台版アナグラムを自在に楽しめばよい。解釈に無限の可能性を持った舞台である。そこもすごい。
ヨージさんは間違いなく才人であると思う。が、ヨージさんの作品には才気ばしった表現者にありがちな、自慢げな臭いが一切感じられない。他の表現者や観客という他者を意識し、同時に見下しているという視点がない。(凡人ゆえの悲しさか、私はそういう劣等感を刺激する自慢げな臭いは敏感に嗅ぎつけるのである。)ヨージさんが意識しているのはヨージさん自身であり、視線は常に自身の内側に向けられているのだと思う。作品からも非常に内省的な印象を受ける。内省的ではあるが、独りよがりではない。観客も感情を共有できるように作られている。
今回のエピソードの中に、芸人ヨージさんがネタ見せをするシーンがあった。ヨージさんはいわゆる「あるあるネタ」を見せたつもりなのだが、審査する側からは「それ、君だけだよねー」(「それは君だけの経験でしょ?」というニュアンス)と言われ、軽くあしらわれる。困惑するヨージさん。
万人に共通するような体験を舞台に上げ、みんなで「あるある」と頷くことに意味があるとは思えない。個人の体験であっても、喚起される感情は共有できるのではないか。そう言いたげなエピソードのように感じたのだが、深読みしすぎだろうか。
感情が共有できるからなのかどうか、とにかくヨージさんの舞台を見終わった瞬間から、私はきまって幸せな気持ちになる。ヨージさんの作品には優しさがあると思う。癒しなどという言葉は安易に使いたくない。昨今流行の、ものほしげな人たちが求め、手に入れたと思い込んでいる似非癒しとは次元が違うのだ。その違いは実際に舞台を見て確かめていただくほかはない。
こんなことばかり書いていると、ひどく真面目な舞台と誤解されそうなので、ギャグについても少し書かせていただこう。センス抜群の傑作揃いだが、以下に述べるのはごく一部である。(ネタバレは困るという方は、■の部分はとばしてお読みください。)
■DEATH NOTEの回覧板版
http://jump.shueisha.co.jp/deathnote/
「鈴木と佐藤の印を押したら、日本のかなりの人口が減る」
*私はDEATH NOTEという漫画の存在は知らなかったのだが、話の前後から呪いをかけられた人物が死に至るということは理解できた。回覧板に押した印のせいで死亡、というのが無性におかしかった。
■未確認動物ビスケット
http://www.kk-heart.jp/mu/uma.htm
*グロテスクなビスケットになりそうだ。
■パクリエッセイ=「春は朝方が好き」
出版社の編集部でのやりとり。次に出す本についての打ち合わせで発案される。
*むろん有名な古典作品のパクリである。オリジナルの作品名は出てこないが(出したら面白くない)、日本人ならだれでも知っている作品だから猛烈におかしい。
英語圏の国々であれば、シェイクスピア作品の一節を小説に取り入れるという手法は珍しくもないが、日本の笑いの世界でこれだけ大胆に古典を扱う人はめったにいないのではないか。
■「ミンダナオ島に元日本兵がいたというニュースがあったけど、実は日本にも元日本兵がいたんだよ。それもたくさん」
*逆転の発想でおかしい。
■マリリン・モンローと同じ場所にほくろがある先生の話
文化祭のあった日に、お使いを頼まれた生徒が寄り道をした挙句、ようやく教室にもどってくる。
生徒の移動ルート(=言い訳)を聞いてから先生が言った一言。
「お前はケネディ暗殺に使用された鉄砲の弾か?」
*マリリン・モンローとケネディという繋がりを意識したネタで、その知的なセンスに痺れる。
■怒怒と書いて、いらいら、と読ませる居酒屋
*こういう言語感覚もたまらなく好きだ。
喚起される感情やギャグの他にヨージさんの作品を特徴づけているのは、その言葉の美しさである。語彙が豊富で表現に過不足がない。言葉の選択が的確で品がある。台詞が知的なのだ。
また、斬新な面と古風な面が同居している点も魅力的な特徴だと思う。具体例をあげるときりがないが、古風な面の一例で言えば小道具の使い方が面白い。
まずは、(今回はあまり登場しなかったが)レンゲ。これをさまざまな物に見立てる。まるで噺家さんの扇子のようだ。
そして、今回登場したのが自在に形が変えられる大きな造花。
これをやはりさまざまな物に見立てるのだが、こちらは早野凡平さんのホンジャマカの帽子のように感じられた。
ところで私には、ヨージさんに関心を持ちながら、多忙のため未だにライブ体験が果たせないでいる気の毒な友人がいる。その友人いわく。
「笑いを享受するには才能と訓練が必要である」
これは名言! 全く同感である。特にヨージさんのソロライブを拝見していると、訓練は不可欠に思われる。
今回のソロライブを一緒に見た友人2人の反応が非常に興味深く、まさに彼女の言葉が真実であることを物語っていた。
Sさんはヨージさんのライブを見るのは、3月のソロに次いで2回目。
「前回は途中で置いていかれてしまったけれど、今回はコツがつかめたのでお終いまで楽しめた」とか。
Mさんは絹7で短いネタを見ていたものの、長いライブは初めて。前回のSさん同様途中でわけがわからなくなり、困り顔だった。
私はSさんの例もあるので、あきらめずに見続けるよう勧めておいた。
わずか千円という旅費で、椅子に座ったまま、世界一周より豪華な、時間旅行、次元旅行が楽しめるのは、世界中どこを探してもヨージさんのソロライブをおいてほかにない。多少の訓練をつむ価値は十分にあるというものだ。
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