1977年〜、
  タウン誌も編集してみた

1993年下町演劇祭で、
  お笑いライブをやってみた

昇太真打ち記念本
カレーライスの本
ラ・ママ5周年
マトモ芸・フシギ芸
お席亭さんシリーズ1
お席亭さんシリーズ2
お席亭さんシリーズ3
お席亭さんシリーズ4
近藤志げる新聞掲載記事
雑誌「アミューズ」掲載
オピニオンマガジン
「ばんぶう」
LB中州通信

 

 

「童謡漫談 近藤志げるの世界」  LB中州通信・1995・11月号掲載記事より
取材・構成 木村万里

童謡は文字通り、わらべの歌。
寄席は浮き世の学問所と言われたところだから、大人が笑って気を抜くところ。
そう考えれば、寄席で大人相手にかつて口ずさんだ童謡をアコーディオンにのせて歌い、
その歌の背景や作詞者の思いを語り、あるときは笑いを誘い、あるときは涙を誘い、
高座をつとめるのは、そうはずれたことではないはずだ。
ここに紹介する近藤志げるさんは、生まれつい
たときから童謡が大好きで、
なんてことは・・・・ない。
近藤さんが童謡に関わるようになるまでには長い道のりがあった。

●ギター1本抱えて神戸から花の東京へ●

――――― そもそもは神戸のお生まれでしたよね。
近藤 そう。ギター1本持って家飛び出してきちゃった。
   今の東京じゃないよ。
   その頃の東京っていうのは生き馬の眼を抜くとこだって教えられてたし、
   自分でもそれを疑いはしなかった。
   東京駅に降り立ったとたん、右を向いても左を向いても知らない人ばっかり。
   当たり前なんだけどさ。
   一番安全そうで気軽な感じのする駅員さんに
   「修学旅行生が泊まるような旅館を紹介してください」って聞いたの。
   ボラレないだろうと自分で考えたんだね。
   そしたらその駅員さんも親切な人で、旅館の人をわざわざ呼んでくれたんですよ。
   で、行ったところが八重洲の昇龍館。
   こじまりした旅館。
   そこに1週間いて、さすがお金のことで不安になった。
   聞いてみた。
   昭和27年のことですよ。
   食事抜きで1800円。
   ラーメンが20円のときですよ。
   1週間でなんだかんだで1万5,6千円になる。
   神戸から3万円しか持ってこなかったから、遊んでたこともあって
   ほとんどなくなってきちゃった。
   びっくりしちゃって、仲居さんに「もっと安い旅館、あります?」って聞いたら、
   いきなり東京の地図を開いて、コンパスを持ってね(笑)、
   東京駅に針を置いてくるっと円を描いた。
   「この丸の中はダメ。この円の外へ行きなさい。そうね、ここがいいかもしんない」
   指された地図をたよりに行ったところが山谷。
   布団は破けて中の綿がぽこぽこ出てる。
    1泊10円だった。
   なんで初めからここへ来なかったのかなって。
   それがスタート。
   そこでまず仕事をみつけなきゃいけないと思って、
   銀座で屋台のオヤジさんに「なんか仕事ないかなあ」って相談したら
   「オデンの売り子やるかい?」
   「なんでもやるよ」
   屋台の店たたんで「車押しながらついておいでよ」
   で、ついていったところが山谷だった(笑)
―――オチがちゃんとついてる。

●驚異!!頭の中には1万曲の歌がインンプット●

―――ギターを抱えて出てらしたってことは、それが生きる術になったわけですか?
近藤 そうね。けど、いきなり稼ぎにはならない。
   神戸で基本は習ってたけど使い物にならないよね。
   実践でやるのが一番よ。
   学校で1ケ月かかるとこを実践でやると3日で覚えられる。
   お金もらう立場でやると、1回間違えると絶対忘れないからね。ほんと頭に入る。

―――流しをやってらしたんですね。
近藤 今みたいにカラオケのない頃は、お客さんは流しにお金を払って伴奏してもらって歌ってた。
   生だから人と人の触れあいがあるよね。
   今のカラオケの機械は、人のキーに合わせるっていうのもあるらしいけど、
   こっちは次に何を歌いたがってるのか、
   隣の女の子に聴かせたがってるな、
   とかいろんなことを配慮してお金もらうわけだよね。
   だから楽器弾けないとどうしようもない。
   流しっていうのは2人1組でリーダーと新米が組む。
   売り上げの半分はリーダーがもっていっちゃう。
   残りの半分を流しの親分のところに持って行って、
   そこから1日100円、200円をもらう。
   こりゃリーダーにならなきゃ損だと思って、秘密に1人で練習したよ。
   当時、浅草の観音様の境内にあった6畳1間の家で仲間6人で寝泊まりしてたんだけど、
   みんなが寝静まってからギターの練習をした。
   音が出ないように工夫をしてね。
   弦と板の間にハンカチをはさむ。
   ポッポッポッってかすかに音はするんだけど、みんな疲れて熟睡してるからわかんない。
   指使いの練習にはなる。
   3,4年かかるところを半年でできるようになった。
   「近藤だけはいつ練習したのかわからない」って不思議がられたけど、
   俺、言わなかった(笑)

―――いつからアコーディオンに変わったんですか?
近藤 昭和32,3年。お店が満員のときにギター1丁でやっていても音が聞こえてこない。
   最初、ちっちゃいアコを借りて、練習もせずにいきなり客の前で弾いちゃうの。
   間違ってばかりいるんだよね。
   でも、みんな馴染みの客だから許してくれたんだ。
   「その代わり3割安くしとくから」

―――実践あるのみ(笑)。頭の中にインプットされてる曲は1万曲だとか、
   ナツメロコンピュータとか、言われてますよね。

近藤 寄席のネタで12345曲って言ってるんだけどね。
   でも、それくらいは知ってるよ。
   好きだから自然に覚えちゃう。
   不思議に今まで歌をおぼえるのに苦労したことないんだよ。
   19歳か20歳の頃に、60、70歳の年配の人でも知らないような曲を知ってた。
   よく、「お前はなんでこんなに歌を知ってるんだ?」って奇異な目で見られてた。
   今、残念なのは、こういう年になってるから、知ってて当然だと思われるのが悔しいな。
   若い頃から知ってたのに。

●談志師匠との出会いによって芸人の世界に●

近藤 そして、人生にツキっていうのはあったね。
   ある時、ギターを抱えて1人で歩いていたら、向こうから流しの仲間がやって来て
   立ち話をしてた。
   そこへ店の女の子が出てきて、客に流しを呼んで来いと言われたと言う。
   たまたま僕が彼女に近い側にいたから「じゃ、俺、行くよ」と仲間と別れてその店へ行った。
   どっち側に立ってたかというツキ。
   これがなかったら、僕は談志さんとも会ってなかったし、店をやるのにお金を貸してくれる人   とも会わなかった。

―――お店もやってらしたんですか?
近藤 やったよ。
   銀座でバーを持ちたくなったけど、お金がないの。
   ある社長が「よし、わかった。今年はお前に賭けよう」ってお金を貸してくれた。
   ただ自分でもお金を作らなきゃいけないってんで、
   生命保険のセールスやったりもしたけど、
   ほとんどは社長が出してくれた。
   そのかわり、雨が降ろうが風が吹こうが、月末になったら借金返すのに
   借金してでも返しに行ったもんね。
   利子は取らない。
   元金返し終わったとき、ダンヒルの金のライターを持ってったのを覚えてる。
   でも、社用族が利用する店だから現金商売じゃない。
   支払いが1ケ月先のとこもあれば、半年先のとこもある。
   勘定あって銭足らずという状態になる。
   その店で歌ったり歌わせたりしてた。
   銀座で客に歌わせたのは、僕が最初。
   そこへ、友達が談志さんを連れて来た。
   「コンちゃん、それだけの音楽に対する情報とか知識があるのにもったいないから、もっと表   へ出てみたら。テレビに出るか?」と言われて。
   こりゃ店の宣伝になるからと思って「お願いします」
   ある時、「コンちゃん、アコ持ってちょっと来てくれ」
   って言われて、思いつくまま次から次へと弾いてた。
   1時間くらいやったら、ちょっと休憩しようということになって、
   談志さんと一緒にいた人が「こういう者です」って名刺を見たら
   「やじうま寄席」(日本テレビ)の人だった。
   テストされてたんだ。
   で、すぐ出ることになって、次のビデオ撮りはいついつだという。
   レギュラーで出てた灘康次とモダンカンカンの後ろで、シルクハットをかぶって、
   ただアコーデイオンを弾いてる役。
   みじんも笑っちゃいけない。
   目線も動かしちゃいけない。
   ずーっとただ立って、見てる人が気になって「あれはいったい何だ?」
   となったらしめたもんだ、なんていう演出だった。
   冬はシルクハット、夏は白。
   レギュラーで2年ほどやったかな。
   白のシルクハットが汚れてきたのがテレビに映ってたらしく
   「近藤さん、シルクハットはきれいに洗っておいてくださいよ」
   っていう手紙が来たよ。シミがついてたの。
   その頃、談志さんの引きで寄席にもちょこちょこ出してもらってた。

●童謡がはたして寄席芸として成り立つのか!?●

近藤 でも、こっちは素人。
   寄席に出てもネタがない。
   ただ歌っててもしょうがないし。
   何をどうすればいいかわからない。
   そんな時、例のごとく、銀座の女っ気のないバーでワイワイ飲んでた。
   毎晩、なんか歌って飲んでる。
   その日によって、軍歌でいこうとか、演歌でいこうとかなる。
   その日は、童謡でいこうということになった。
   仕掛けは談志さん。
   「桃太郎」「金太郎」「浦島太郎」「兎と亀」「牛若丸」「花咲か爺い」
   知ってるかぎりの歌を弾いて大合唱。
   じゃあ、北原白秋で、西条八十で、野口雨情で・・・・・。
   思いつくかぎりの歌を弾いてたら、談志さん、じっと聴いてて
   「コンちゃん、これはネタになるぞ」って、
   数日したら「はいよ」と台本渡された。
   台本と言っても原稿移用紙じゃなくて、ものを大切にする談志さんのことだから、
   書いてある紙がみんなどこかのホテルの 
   便箋だったよ。
   で、野口雨情の文字が目に飛び込んできて、雨情は何年何月どこで生まれて、
   どこへ旅してどういうことを感じたか、調べること、って書いてあった。
   この台本をもらったのが昭和57年。
   寄席っていうのはみんな笑いに来てるんでしょ?
   落語や漫才の間に入って童謡を歌っても・・・ねえ・・・想像つく?
   高座を下りてきたときに、もう絶対やらないと何回思ったことか。
   いやな汗ばっかりかいてさ。
   やめたかったけど、あれだけの人(談志師匠のこと)が言うんだから、
   何かあるだろうと思って。
   でも、自分でね、なんとかしなきゃと思って、雨情さんを訪ねて行った。
   昭和58年の5月30日。
   玄関入ったら庭があって、右側に雨情が執筆してた部屋がずらーっと並んで掛け軸があって。
   本を読んでるマネキン人形が置いてあった、と思った。
   ああよくできた人形だな、と思って庭を横切ろうとしたら、
   目線の右側にちらっと動いたものが目に入った。
   あれ、電動式の人形かな、と思ったら雨情のお孫さんの不二子さんだった。
   しめた、なんか聞けば寄席でしゃべるネタを仕入れられるかもしれない、
   と思って、説明するんだけども信用してくれない。
   「あなた、芸人さんだと言うけど、嘘でしょ。
   おじいちゃんの地味な童謡を寄席で歌ってるなんて信じられない」
   そりゃそうだよねえ。
   何度も説明してやっとわかってもらって、いろんな話をしてもらえた。
   それから広がった。
   ああ、そうか、今までの俺のやり方は間違ってたなって。

―――どういうふうに?
近藤 本読んで、想像して野口雨情をやっちゃいけない。
   自分が野口雨情にならなきゃダメなんだわ。
   今はまだまだそこまでいってないけどね。
   講演とか人を教える立場で話をするんだったら想像した野口雨情を語っていれば
   いいんんだけど、僕の舞台では、僕がやってもそこに野口雨情がいなきゃダメなんだわ。
   なかなかそこまでいかないけどもね。
   「船頭小唄」は野口雨情が心中しようとした直前に作った歌なんだから。
   西条八十や北原白秋は東京にいたから、作ったものがどんどん売れて世に出たけど、
   雨情さんは、言い方悪いけど、ど田舎にいたからいいものを作っても伝達していかない。
   自分には才能がないから売れないと思ってた。
   心中しようと思ってたときに、おかみさんに最後の最後にもう1回
   作ってくれと言われて作ったのが
   「死ぬも生きるも、ねえ、お前」という暗い歌詞の「船頭小唄」だった。
   それが演歌師の口コミでパアーと広がって、
   それと同時に今まで作ってあった名曲が一瞬にして売れた。
   不二子さんがおっしゃるには、 
   「おじいちゃんは言っていましたよ。あの「船頭小唄」は、はいずりの歌でやんしたな」
   地獄からはいずりあがったっていう意味らしい。

●なんでもやります、私の知らない歌はありません●

近藤 それからですよ。真剣にやり出したのは。
   それまでは寄席に出ているのも、サラクチ(最初の出番)だから、
   客もパラパラで反応うすいし、やってて面白くもなんともない。
   そしたら、ある日、手紙が来てね。
   「サラクチに上がっても手をぬくなよ。
   いつかは誰かが見ていることがあるものだ。
   また、手をぬかないという実績を作る尊さ」
   キザな文句が書いてあんなあ、とふと差出人を見たら、
   立川談志。
   あの人はそういう人なんだ。
   その通りだったよ。
   いつかは誰かが見てるんだ。

―――見ず知らずのお客様の前で身をさらしているのが舞台だから、
   考えてみたら怖いことですよね。

近藤 ねえ・・・・・・。
   そんなことがあって、ある日、こちらから歌いましょうともなんんとも言わないのに、
   客席でみんなが静かに歌い出した。
   あれ?って・・・・・・。
   「赤い靴、は〜いてた、女の子〜、異人さんに連れられて、行っちゃった〜」
   ネタをやり始めて2年くらいかかった。
   それからは、僕、3番までしか知らなかったけど、
   続けてアコ弾いてたらお客さんが4番まで歌ったり
   「忘れていたものを思い出しました。近藤さん、ありがとう」って言われたり。
   ありがとう、ってお客さんに言われたの初めてだったからびっくりしてね。
   俺、このネタ捨てなくてよかたあ、と初めてその時そう思った。
   もうこれでずーといくぞ、って。
   雨情ってなあ凄いねえ。

―――寄席以外でもやってらしゃるんですよね。
近藤 老人会や老人ホームとか行くとみんなよく覚えてる。
   目の見えない人たちのところへ行ったら、いい歌はよくご存じですね。
   最初、そういうことを知らないから、さぐりさぐりやっていると、みんなついてくる。
   じゃあ、これじゃあどうだ、じゃあ次は・・・・・・ってやっていくと、
   どんどんついてくるの。
   具体的な思い出なんて忘れちゃうんだけど、歌だけは体にしみついちゃってるんだね。
   覚えようと努力してないのに覚えてる、体が。

―――歌の力でしょうか?
近藤 うーん、どうなんだろ。

―――でも、お客さんのリクエストに答えられないときもあるんでしょう?
近藤 そりゃ、いっぱいあるよ。あるパーテイーで、例のごとく
   「なんでもやります。私の知らない歌はありません」って言ったら、
   「君が代の二番」という声がかかって、これにはまいったな。
   楽屋にいたら紳士がやってきて「二番はあるよ」って言って話してくれた。
   その人が言うには、筑波万博の時、政府館のオルガンの上に小学唱歌の本が置いてあって、
   こっちのページに君が代の一番が、反対側のページに二番があったから、
   コピーしといたので、今度送ってあげますよって。
   パーテイーは忘年会だったから、飲んでていいかげんなことを言ってんだろうと思って
   聞いてた。
   「松がとれないうちに送りますよ」って約束して楽屋を出て行ったんですけど、
   ほんとに送ってくれた。
   その人というのが総理大臣になる前の海部俊樹さん。
   名前見てもまだわかんなかった。
   そしたら新潟の寿司屋さんが「四番まであるぞお〜」って電話をかけてきた。
   あれはどうなったかなあ。

―――数え歌じゃないんだから(笑)
藤近 世の中面白いねえ。いろんなことがあるわ。

―――この10月30日に野口雨情没後50年記念「志げるとアコーデオンと童謡と」を
   芸術祭参加で公演なさるということなんですけど、なにかきっかけでも?

近藤 人によっては遅いという人もいるんだけど、早くやっても失敗してたと思いますよ。
   短気だったし、生意気だったし。
   雨情のこと一つにしたって奥深く勉強してなかったし。
   今でもわかったとは言えないけど、ここ3,4年で雨情で1時間半も
   舞台でやるようになったんで。
   ボケーッとしてたんじゃダメだね。
   やれ麻雀だの競馬だの遊んでばっかりいたから。
   図書館へ行ったりして調べてたらいろんな本に出くわして、いろんな知識が入ってきた。
   今までのインターバルは、神様が与えてくれたインターバルだったと思う。
   今年は、芸術祭も第50回なんだって。おかしいね。

―――それにしても18キロあるアコーデイオンは重いでしょう?
近藤 逆にアコに鍛えられたよ。

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