2002年12月2日(月)6時半開場 7時開演
が開かれます。
「雨情、八十、白秋、そして、志げるの青春歌謡」
そうかしら
ほんとにほんとにそうかしら
地球は駄目って、そうかしら
人は鬼って、そうかしら
ちかごろ大人が涙する
それはあんがい遠い日に
ひとり歌った
童謡や
みなで歌った
青春歌謡
気持ちがちょっとやさしくなって
内なる鬼を退治しに
↑これは、不肖、私メが作ってみました。お恥ずかしい。
野口雨情(のぐちうじょう)の詩をヒントにさせてもらいました。
女衒(ぜげん)に女郎(じょろう)として売られた貧しい娘を主人公にした
↓この詩は、何度聞いてもぐっときます。
窓の格子によりかかり
いつまた来るの?と泣く女
錆びた包丁の悲しくも
はかなき身だよと
そうかしら
ただ明けやすい夏の夜の
町は明るい青すだれ
研いでも研いでも包丁の
錆びは研いでも
そうかしら
どうしようもなく洗っても洗ってもぬぐいきれない芥を身につけ
あたしゃ泥沼の女よ、と嘆く女を
「そうかしら」
の五文字で救おうとした雨情のやさしさ。
今年は、雨情生誕120周年記念の年にあたります。
土の詩人、雨情、
ハイカラな都会の詩人、西条八十
自然を歌った、北原白秋
この3人の歌とその背景を語るのに加えて、
そもそもは銀座でアコーディオン片手に流しで覚えた
青春歌謡を、近藤志げるさんがめいっぱい、時間の許すかぎり
歌います。
会場は100人も入れば満員になる、なかの芸能小劇場。
中野駅北口から徒歩7分。03−5380−0931
2500円 全自由席
協力・落語王 渡辺敏正
ご予約はお早めに
03−3795−9913 ざっくりこの会
●近藤志げる新聞掲載記事 ●近藤志げる雑誌「アミューズ」掲載記事
近藤志げる プロフィール
本名、近藤成
兵庫県神戸生まれ
昭和27年(1952年)ギター一本抱えて上京
昭和28年 東京ポンチ(ボーイズ)に参加
その後、ギターをアコーディオンに変え、銀座の流しに。
リクエストされて、歌えない歌はない、と豪語。
“ナツメロコンピュータ”の異名をとる。
頭の中には、12345曲がインプットされているという噂。
当時は、カラオケのないナマオケの時代。
お客さんが歌いやすいように、キーを合わせ、歌詞を教えて生で伴奏する。
日本初の生伴奏で歌わせる店を銀座に開店。
そこへある日、立川談志師匠がふらりといらして目にとまり、
日本テレビ「やじうま寄席」にレギュラー出演。
昭和56年(1981年) 落語協会所属
昭和57年頃より、野口雨情を中心とした童謡がテーマの舞台を作り始める。
実際に雨情宅を訪れ、お孫さんの不二子さんにお話をうかがったりしてネタを磨き、
語りにふくらみが出てくる。
平成7年度(1995年)文化庁芸術祭参加、
野口雨情没後50年記念公演「志げるとアコーディオンと童謡と」(10月30日なかの芸能小劇場)で、演芸部門優秀賞受賞。 |
|
平成9年(1997年)6月8日読売新聞日曜版に掲載
細身の体を少し傾けながら、物悲しげなメロディーをひと節。
アコーディオン漫談の近藤志げる(65)は、寄席の高座には似合わぬスマートな口調で話し出した。
「古い歌、思い出の歌、何でも歌うナツメロコンピュータです。レパートリーは12345曲。さあ、何を歌いましょうか」。
すぐに客席からリクエストの声が飛ぶ。
「雨降りお月さん」「しゃぼん玉」
「野口雨情ばかりだ。今日は常連さんが多いのかな」。
うれしそうに笑って、近藤は「しゃぼん玉」を歌い出した。
寄席の高座に立って16年、雨情を歌い続ける近藤に、大きな拍手がわいた。
「雨情の童謡は、飯の種であり、あこがれであり、一生のテーマ」という近藤は、
雨情にたどりつくまでに、長い回り道を歩いた。
20代の初めに、ギター1本持って神戸から上京、流しの演歌師になった。
アコーディオンを覚えて腕を上げ、ついには銀座に店を持つまでになった。
客の中に、落語家の立川談志がいた。
「コンちゃん、寄席に出てみないか」
近藤のなみなみならぬ音楽への情熱を知る談志は、尻込みする近藤を高座に引っ張り上げた。
1981年、近藤は落語協会の一員に。
49歳の遅いデビューだった。
「寄席に出るなんて夢のようだった。でも、素人だからネタがない。途方に暮れてたら、談志師匠がぽんと台本をくれたんです」
談志自作の台本は「雨情物語」。
代表曲をちりばめながら波乱の生涯をたどる、歌入り一代記だった。
感激した近藤は、すぐに高座にかけたが、意外や客席も楽屋も、反応は冷ややかだった。
「寄席というのは、笑いに来るところでしょ。素人同然の僕が、落語と漫才の間に童謡を歌っても・・・・」
83年、思い余った近藤は、茨城県の雨情の生家を訪ねた。
幸運にも、雨情の孫の不二子が応対してくれた。
「アポも何も取らずに押しかけた。寄席で雨情物語をやってますと言っても信じてくれない。
おじいさんの話じゃ、面白いはずないって」
「赤い靴」のモデルは誰か。「しゃぼん玉」は・・・・・。
近藤は積もり積もった疑問や質問をぶつけた。
「不二子さんの話を聞くうち、雨情の不器用な生きざまがたまらなくいとおしくなった」
と言う近藤。
「雨情物語」は、この日を境にがらりと変わった。
おどおどした様子が影を潜め、「僕は雨情になりたい」と言い切る高座に多くのファンがついた。
「僕の母はね、働いて働いて、働きづめの人だった。
ある晩遅く、鼻歌が聞こえるので隣室をのぞいたら、母が僕の浴衣を縫いながら「しゃぼん玉」を歌ってた。
屋根まで飛んで、こわれて消えた・・・・。
これ、台風の歌かな」(笑い)
雨情没後50年にあたる95年、近藤は「雨情物語」の総決算である「アコーディオンと童謡と」という公演で、芸術祭に参加、優秀賞を獲得した。
現在の夢は、雨情の童謡をテーマにした一人芝居を自作自演することだと言う。
「歌は「しゃぼん玉」がいいな。
僕が雨情にふんして、「生まれてすぐに消えたしゃぼん玉は、これこれこうでやんすな」なんて言うの
絶対に実現させて、もう一度芸術祭に出ますよ」。
「雨情になりたい男」の野望は着々と進行している。
長井 好弘
●近藤志げる雑誌「アミューズ」掲載記事
|