1977年〜、
  タウン誌も編集してみた

1993年下町演劇祭で、
  お笑いライブをやってみた

昇太真打ち記念本
カレーライスの本
ラ・ママ5周年
マトモ芸・フシギ芸
お席亭さんシリーズ1
お席亭さんシリーズ2
お席亭さんシリーズ3
お席亭さんシリーズ4
近藤志げる新聞掲載記事
雑誌「アミューズ」掲載
オピニオンマガジン
「ばんぶう」
LB中州通信

 


東京情報1977年10月号
東京情報1978年8月号
東京情報1978年9月号
東京情報1978年10月号
東京情報1978年6月号神輿新聞
【1977年〜、タウン誌も編集してみた】
月刊雑誌『東京タウン情報』が創刊されたのは1977年4月。
毎回、素敵な絵で表紙を飾ったのは、小幡堅さん。
新聞の3行募集広告を見て飛び込んだのは、蛎殻町にある明文社という印刷屋さんでした。
たしか、全国のタウン誌間でコミュニケーションをもちつつみんなで一緒に栄えよう、そして結果的に印刷屋の仕事を増やそう、という目的で創刊された情報誌だったと記憶しています。
当初の『東京タウン情報』という誌名は、よその出版社がすでに届け出ていたとかで、途中から『東京情報』と誌名変更されました。
さらにその後、経営体制改変により『うるばん』に。
このメディアで、私は、「祭り」「演芸」「ボランティア」の3コーナーを担当。
「祭り」内に「神輿新聞」1頁を立ち上げ、後に講談社発行祭り写真本につけるコメントを担当することに。
面白いお祭りギャルとして新聞、週刊誌にインタビュウされる。
たかが2年間、キャノンE1を首からぶらさげ、神輿を追っかけただけなのに。
「ボランティア」コーナーを担当しているかぎりは、私もなにかしなきゃ嘘になると、丸山浩治先生の手話教室に通い、卒業発表では気のあった生徒4人で手話コントを発表。
ユダヤジョーク集から2話、私が脚本化して、友達のお家で練習しました。
ちょっとだけ受けた。
斬新なことをやってたのね。
私が手話教室に通うもう一つのきっかけは、映画「ミスター・グッドバーを探して」のダイアン・キートンの手話が素敵だったから。
さらにもう一つ、英会話より手話で外国人と話しちゃお、という魂胆も。
「演芸」を担当した流れで、渋谷ジァンジァンにて山本益博さんインタビュウを行ったのを契機に、テレビ番組「花王名人劇場」パンフを編集することに。
なににつけても、あちこち無駄にしていませんねえ。
その代わり、遊ぶ時間なんて、いつもなかった。
月に15本くらい(病み上がりのせいで)ハアハア言いながら落語会を見て回り、一人で9頁の演芸特集を組んだのも懐かしい思い出です。
浅草松竹演芸場で、ツービート(世界の北野は漫才師だった!)の漫才を見て衝撃を受けたのもこのころ。
がらんとした客席後方に座って笑っていると、後ろに気配あり。
振り返ると、出番前の坊屋三郎さん。
真剣な目つきが忘れられません。
新しき時代の笑いをみつめていらしたのでしょう。
仲間内の、それも先輩が気にしたツービート漫才。
その後、1年もしないうちに不動の地位をしめていたツービート。
情報誌内で、落語の登場人物に倣って「のりやの婆さん」という演芸ルポコーナーを自分で勝手に作り、そこに「ツービートは、背広じゃない方がいい」と書いたっけ。
このときのコーナー名「のりやの婆さん」が、現在のHP名「まりしろ」につながってくるわけです。
当時は、漫才の内容がキツイので、業界の誰もが「ツービートはマスコミでは無理だな」と言っていました。(証言その1)
タモリもそう言われていました。(証言その2)
ところが・・・・。
ですから、業界の声はあまりあてにはなりません。
業界って、早い話が保守ですからね。
1978年2月号、編集後記のテーマは「テスト」。
こんなことを書いていますよ。
「うー、テストというのは、人を試すというものでありまして、これをやると頭がいいんだか悪いんだかがみんなわかっちゃう、恐ろしいもんですな、ンとに。
田んぼン中を受験生が辞書片手によく通る。
いつもそれを見てエた蛙が、「なんだろうな」ってんで、
「テストってのは大変なものらしいよ」
「どうでェ、俺たちもいっぺん受けてみようじゃあねえか。」
試験場へまいりますてェと、青蛙なんか「あんた、顔色悪いよ」。
テストが始まると、結局、みんな試験場から追い出されますな。
2本足で立つとみんな眼が後ろへいく・・・。
(注:志ん生ふうに読むこと)

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