1977年〜、
  タウン誌も編集してみた

1993年下町演劇祭で、
  お笑いライブをやってみた

昇太真打ち記念本
カレーライスの本
ラ・ママ5周年
マトモ芸・フシギ芸
お席亭さんシリーズ1
お席亭さんシリーズ2
お席亭さんシリーズ3
お席亭さんシリーズ4
近藤志げる新聞掲載記事
雑誌「アミューズ」掲載
オピニオンマガジン
「ばんぶう」
LB中州通信

 








■マトモ芸・フシギ芸 1986年10月1日(水)
6時開場 7時開演  1500円
新宿コメディシアター
主催:広告批評
企画・プロデユース:高信太郎、木村万里
協力:新宿コメディシアター
出演者紹介★当日配布のチラシより 文責:木村万里 
イラスト:高信太郎


早野凡平(ボードビル)
 ホンジャマーの帽子、パンティストッキング、脚立、シンバルを持ったオモチャの猿との掛け合い、横笛、ロープ、そしてパイプオルガン、と次々に出てくるオリジナルなアイデアはとどまるところを知らない。新たに、納豆をネタになにか芸ができないか苦悶の日々。
田村大三(指笛音楽)
 たんなる指笛ではない。指1本をくわえてフルートのごとくに演奏してしまう。人呼んで“人差し指のホロビッツ”。奥様と3人の娘さんうちそろってピアノと指笛でクラシックを奏でる音楽一家。
スージーきくち
 あっというまの瞬間芸。ちょっと目をそらしてる間に終わってた、なんて。ドンキーカルテットのジャイアント吉田の弟子でもある。ナンセンスが根付きにくい日本で頑張ってます。
波多野栄一(百面相)
 つい先日、金婚式を行ったばかり。86歳。鞍馬天狗、クーニャン、お宮貫一、カウボーイ、オッペケペ、百面相芸は数知れず。たったかたったか変身する間合いがなんとも言えなくて。
ボン・サイト(吹奏楽)
 昔、松竹映画「川は流れる」「戦場の野郎ども」に俳優としても出演。デーオ、イテテエエヲの浜村美智子バナナボートのバンドリーダーでもあった。タップに国旗掲揚にお喋りに。
三木比呂史(サルの物真似)
 もとコント小企業、と言ってもわっかんないだろうなあ。ひたすらお猿の壁塗りを・・・・。俗称“東北の爆笑男児モンキーボーイ”。山形県からはるばる出演。
パン猪狩(奇術MUSIC話芸)
 浅草の芸人でこの人にネタの相談、一身上の相談をしなかった人はいない。パントマイム、奇術、役者、蝋治療、とアイデアマン。最近、また、不思議な楽器を月賦で手に入れた。これをどう料理しようか、ばかりが頭にある。イギリスの街灯が大好き。70歳。
ゲスト■色川武大 「寄席放浪記(廣済堂出版1300円)を最近出版。後ろの人名索引によると、900名の芸人とその周辺の人たちが網羅されている。
進行■高信太郎 最近「超日本むつかし話」(笠倉出版600円)を出版。
「ようするに、もうからんのだからなにをやってもいいのだ」と「狭い心に広い視野」の名言を吐き、常に笑いたがっている。

<裏日誌>
1986年秋某日、渋谷の地下中華料理店にて、それは始まった。
メンバーは、天野祐吉、島森路子、高信太郎、木村万里。
なんか面白い芸人さんを見たいよね、と天野さん。
テレビには出てないけど面白い人、いっぱいいるんだよね、と木村と高さん。
ちょうど、会場を使ってくれと言ってるとこがあるよ、と高さん。
じゃあ、公演をやってそれを本にのせちゃいましょう、と島森さん。
翌日から、会場押さえと、出演依頼の電話かけが始まった。
本番まで、1ヶ月ない超スピード企画。
広報は、雑誌広告批評表2の1ページ広告と、知り合いに電話とDM。
ファクスもメールも携帯電話もない時代の話です。
チケット持って飲み屋を歩き、知り合いに、チケット販売の日々でした。
「絶対に面白いから!」
当日、フタを明けたら、雨にもかかわらず、「広告批評」の若い読者が押しかけ、会場は超満員の熱気であふれかえった。
リハーサルのパンさんには笑ったのなんの。
楽器を前に歌っているのだけれど、祈りのような雄叫びのような悲鳴のような、なんだかわかんない。
この人をトリにしてよかった、とそのとき私は会の成功を確信したのだった。
入場できず、お帰り願ったお客さんには頭を下げるしかなかった。
開演して、トップバッターは、天野さんと色川さんの対談。
このころの色川さんは四谷住まいなので、タクシーですぐのはずとお迎えにはあがらなかったので、ひやひやもの。
やきもきしている中、汗をかきかき色川亭が開演ぎりぎりで到着。
芸好きのご両人の対談は、実に滋味あふれるいいものになった。
このとき色川さんの口から出た「しびれるような退屈な芸」が、名言となって後々伝えられることに。
普段の寄席でなら、それこそしびれるような退屈な芸であったはずが、この日は違った。
フシギ芸に免疫のない初体験客が、狂気のように笑った、拍手した。
メンバーの中では、一番知名度もあり、一番イキのいい、早野凡平さんが舞台を降りてくると
天野さんは私につぶやいた。
「一番いいのが最初に終わっちゃったね」
と淋しそうに。
が、1時間半後、これが杞憂だったことに天野さんは気付くことになる。
対談で会の意味を示し、昔はキャバレーで芸人に照明を当てていた高信太郎さんの、このときばかりは出しゃばらない控えめ短めな司会がリズムを見事につくり、田村の端正、スージーのナンセンス、波多野の馬鹿馬鹿しさに場内がもんどりうち、休憩。
後半戦で、ボンの生真面目な冗談トロンボーン、普段は三木左官という左官屋さんの明るい猿真似、とますます会場のボルテージはあがりっぱなし。ラストは、正常と狂気の綱渡りのような絶妙なしびれる間でシーンをつなぐパン猪狩芸で締められた。
口火を切った早野凡平さんは、トリのパン猪狩さんのお弟子さん。帽子芸は、凡平さんがパンさんから500円で譲り受けた芸なのです。弟子が始めて、師匠が締めた。
お客でいた麿赤児が、(芸人たちが)「よく自己崩壊しなかったな・・」と呟いた、という噂が耳に入ってきたほど、会場は客の熱狂で包まれたのでした。
終了後、色川さんは新宿の道で(ツービートの)たけしさんとバッタリ会って「面白い会を見て来たんだ」と自慢そうにしゃべり、内藤陳さんの店のカウンターに、余韻を味わうかのようにずっと座っていらしたと聞きました。
帰りのゴールデン街の飲み屋で高さんいわく
「セックスにたとえれば、これで1週間、イキっぱなしになれるほどのいい会だった」
楽屋で、インタビュウをまとめることにかけては出色の手際のよさとハイレベルのまとめを見せる「広告批評」編集者が、舞台を降りた出演者に次から次へインンタビュウ。
かくして、「広告批評 特集まとも芸ふしぎ芸」1986年11月号ができあがったのでした。



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