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06/1/14 渋谷パルコ劇場 「志の輔らくごin Prarco」
中村義裕
歌舞伎の世界では「団菊爺い」という言葉がある。
昔の名優を引き合いに出して「先代の○○は良かった」だの「あの当時の芸は…」だの、今の人には観られないものを自慢げに語る。
それに対する羨望と昔に拘泥する頭の固さにいささかの揶揄を込めてできたあだ名である。
こと落語に関して言えば、私はいささか「団菊爺い」になりかけていた。
贔屓にしていた昭和の最後の名人・三遊亭圓生の没後はめっきり寄席へ足を運ぶこともなくなり、昨今の落語ブームも横目で眺めていながらも、あえて噺を聴きに出かけようとは思わなかった。
しかし、たまたま先日テレビで立川志の輔が、ある私の好きな噺をしているのを聴き、重い腰を上げて劇場へ足を運んだ。
嬉しかった。
驚いた。
考えさせられた。
嬉しかったのは、尾籠な話で恐縮だが、休憩時間(落語だから、この場合は「仲入り」か)に男性用のトイレに行列ができたことだ。
都内でこういう現象が起きる興行を私は二つしか知らない。
それは芝居だが、落語でもこういう現象が起きた。
男性諸氏は「仕事が忙しい」「開演時間が合わない」などの理由で劇場へ足を運ばない、と言われているが、これだけ多くの男性が劇場へ足を運ぶことがある、ということをまさに「体感」したことは演劇に関わる者の一人として嬉しかった。
驚いたのは、志の輔という噺家の「覚悟」である。
一日だけではじめた独演会(普通はこれが当たり前だ)を十年続けた結果、今回の一ヶ月興行になったという。
それも去ることながら、毎回三席、全部自分で話す。
通常、独演会とは言ってもメインの演者が話すのは二席が普通で、間に一門の弟子やゲストを挟んで行うものだ。
それが、一回の休憩を挟んだだけで、二時間以上しゃべりっ放しである。
それを二十四回、中には一日二回の日もある。並大抵のことではない。彼の年齢を知らないが、ものすごいエネルギーだ。ネタも延べで十二席、ネタ下ろしではないもののすべてオリジナルで通している。ネタの選び方には議論もあろうが、この落語ブームの立役者の一人として、落語に殉教しようというような悲壮な覚悟を感じる高座でもあった。
落語の新作、ということに関して言えば、これは戦前から行われていたことであり、さして珍しくはない。
しかし、決定的に違うのは、昔の新作が当時の風俗などを面白おかしく描写したものが多かった中で、志の輔の噺は彼の視線で時代を斬っていることだろう。
今日の「親の顔」では現代の画一的な教育に対する批判、「ディアファミリー」では便利な文明を享受するばかりで何もしない生き方や家族のあり方に対する風刺や疑問が込められていた。
また、最後の「忠臣ぐらっ」では、落語で「忠臣蔵」を噺すという試みを行い、導入部のまくらでは丁寧に彼なりに古典落語についてを語っていた。
彼は、非常にクレバーな噺家なのである。
「新作落語」と聴くと、古典落語よりも一段低俗のように受け取る向きがあるが、それは違う。
古典落語という基本をみっちり勉強した上で、「応用編」としての新作落語である。
消耗品のように、名前を覚える暇もなく消えるテレビの「お笑い」の一発芸と違うのはここだ。
落語はしたたかである。
落語だけではない。芸能というのは、したたかでなくては生き残れない。
厳しい大衆の支持がなくてはすぐに消滅するのだから。その中でもしたたかな語りを持っているからこそ、このブームを引っ張れるのだろう。
落語に命を賭けている噺家を久しぶりに聴いた。
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